おやつく後記

日常のことなど思いつき

素人でもヘタクソでもやりたいことをやる

飽きたら初挑戦できるものを探す。これに限る。

 

 

 

 

 

今日はすでに出来上がっている袖なしエプロンに袖をつけてみた。

 

 

洋裁の練習がてら、エプロン袖なし、袖つき各一着を作ってを母にプレゼントしたところ、袖なしだと寒いので冬には着ないという。「エプロンは服を汚さないようにするものだから、下に着こんだら袖なしでもいいでしょ」といったのだが、頑なに着ようとしない。この石頭め。だが仕方ない。ならば、と思い立ち、袖なしに着脱可能な袖をつけることにした。

 

 

何もないところから袖を付け足すのは初心者には難しい。でもやると決めたらやる。YouTubeと別のエプロンの型紙を参考に、見様見真似で線を引いてみた。着脱方法はファスナーで、袖の取り外しができるブルゾンみたいな仕様にすることに。袖はバイアステープを付けた方がいいだろうかと思い、本当は持っているのだが好奇心に任せて今回は自作してみた。

 

 

すでに完成したエプロンの袖口のバイアステープをほどき、ファスナーをつけ、袖口も作ってつけてみたら、まあまあうまくできた。初めてにしては上出来。

 

 

できたよ、と母に見せると「ここまでやったの!? すごいというか、この熱量を他に活かせないものかねえ」とつまらないことを言ってきた。

 

<あなたが知らないだけで、わたしは何するときもこの熱量なんです。というか、服作りに情熱燃やすことの何が悪いのさ>と肚の中で毒づいた。<そんなことを頑張るなら、金になる仕事に向けろ>と言いたいに違いない母には届かないので、もう反論するのは諦めている。

 

 

もともと袖なしが前提のエプロンだったので、袖を付けると胸まわりが少し動かしにくい。もし次に作るとしたら胸から肩にかけて余裕を持たせないと、不自然な形になるのだな。なるほど、人体というのはアシンメトリーなんだよな。などと考えながら鏡の前で身体を動かしてると「なにやってんの」と母が笑っていた。笑わば笑え。

 

 

せっかく作った袖だが、つけると身体が動かしにくいので母は着ないかもしれない。いや、気を遣って着るかもしれない。しかしわたしは自分のやりたかったことができて、思っていた理想にそこそこ近かったので大満足したので、着ないならそれでもいい。というか、わたしがもらったら絶対に着ない(笑)動きにくいし、袖をつけたらデザインもイマイチだもの。

 

 

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誰にも頼まれてないし、何の得にもならない。母が着なければ労力も材料費もパーになる。でも、たったひとつ、そして最大の理由はわたしがやりたかったからやった。

 

 

今回の挑戦は初心者にしては難易度が高かったんじゃないかと思う。でも、ヘタクソでもできた。それがうれしい。服を作ることができる、ということの確信がまた深まった。

 

 

洋裁もきっと料理と同じだ。下手でも初めてでも、とりあえず手を動かせば作ることはできる。最初は人になんて出せないレベルが、目玉焼きくらいはできるようになり、そのうちオムレツができるようになり、いつかオムライスや天津飯が作れるようになる。

 

 

だったら洋裁だって、最初は巾着袋だったのがエプロンになり、パンツやスカート、シャツもいつか作れるはず。

 

 

わたしはフランス料理や高級中華・懐石料理を作らない。本気でやりたければできる気がするけど、食材費や手間を考えると自分で作ってまで食べたいと思わないから。かわりに、手ごろな値段でおいしい食材を探し、手塩にかけて育てた庭の無農薬野菜を使うことはある。職人の道具を使わないけれど、持っている包丁をこまめに研いだり道具を大事にし、作業は丁寧にする。有名店の味でなくとも、自分の料理にいつも満足している。

 

 

それと同じように、わたしはハイブランドの服を作りたいとは思わないだろう。服の形はベーシックで質の良いトラッドが好き。「あの生地を使ってこういう形のものが欲しい」、と思ったらすぐに図面が浮かんで作れるようになりたい。きっと、お金があったとしても、自分の手で何かを作りたい。高い服を買うお金があるのなら、その分を上質な材料費に回してやる。

 

 

***

 

 

友達に趣味の話をすると「器用だね」など言われることが多いが、まったくそんなことはない。何をやってもヘタクソだけど、何かにはまったらのめり込むだけのこと(そのかわり、飽きっぽい)。

 

 

7歳の時、生まれて初めて作ったクッキーは、しっかり混ぜていなかったので部分的に苦くて、家族からさんざんな言われようだった。悔しくていまだに覚えている。

分量を間違えて死ぬほど甘いケーキを作って、一口食べてしばらくして「おいしい」といった父の顔が引きつっていたことも覚えてる。

それでも楽しいから作り続けていたら上達して、いまはみんなおいしいと言ってくれる(すべて本音とも思わないけど)。

 

 

バカにされたり笑われたり呆れられたり、マイナスに見られることだらけの中で、誰かにとって、ほんのひとつかふたつ、器用に見えるだけなのだ。

 

 

マイナスに見られているのを感じると、恥ずかしさとか悔しさとかもあるけれど、他人に見せるためにやってないので、しばらくすると忘れる。必ず次は少しでもいいものを作る自信がある。今日の母のように、バカにしてきた相手に、<何も挑戦しないあなたよりずっと楽しいけどね>、って心の中で舌を出したりね。

 

 

最近すぐに人生飽たなあ、とかすぐ思ってしまうのだけど、探そうと思えばやりたいことは見つかるもんだ。今日やりきったので、明日、また何をしようか悩むかもしれないけれど、明日は明日の風が吹く、とな。

 

 

眠くてなにを書いているのか分からなくなってきた。でもいいやアップしてしまおう。

 

 

 

老舗ブランドは発酵している

こないだ、トーク番組「まつもtoなかい」を見ていたらEXILEのHIROが出ていた。名前が出てくるまで、この人誰だろう、テレビの名プロデューサーとか? と思っていたら、なんとHIRO。知らない間にイケオジになってる……。裏方に回ったことは知っていたが、わたしの中では現役引退時くらいのビジュアルで止まっていたので、慣れるまでに少し時間がかかった。

 

 

今回は、ビートたけしダウンタウン松本の対談が目玉だったが、印象に残っていたのはHIROの短い話だった。

 

 

下記、細かいことはうろ覚えで、わたしの都合の良いように解釈しているかもしれないが、あしからず。

 

 

EXILEという看板を残したままプロジェクトのような形にしたことについて、中居から、どういうつもりでやっているのかを聞かれ、「せっかくここまで成長させたのに、終わらせるのがもったいないから」と返事をしていた。

 

 

EXILEの中でいろんなユニットをつくって、人が出入りするのも悪くない。世界的なハイブランドも、たとえばディオール(だったっけ)だって、ディオールというブランドを維持したまま、トップデザイナーは変わっている」というようなことをいっていた。

 

 

この考え方は前にも見たことがあった。寺田本家の書籍「発酵道」と一緒だ。

 

 

 

 

寺田本家というのは数百年の歴史がある老舗の造り酒屋。代々、女の子しか生まれないという不思議な家系で、後継ぎはお婿さんなのだとか。発酵道は23代目が書いた本ですごく面白かった記憶がある。

 

 

そこで、微生物の活動について書かれていた。(以下、こちらもわたしの意訳)

酒を造る過程では微生物の力が不可欠だが、微生物は常に入れ替わっている。必要な時に必要な微生物が発生し、仕事を終えるといつのまにかいなくなる。そういう変化を経ておいしい酒ができる。

 

 

人間も発酵過程のように、必要な場所で必要な働きをして、もし慣れ親しんだ場所を離れるとしても、それはそれで必要なことなのだ。役割を終えた菌が「まだここにいたい」なんて主張しない。別の場所にいけばまたその時点の自分の役割がある。

 

 

しかし人の社会ではそうもいかないことが多い。頭のどこかではもう離れるべき場所だと分かっているのに、「いま仕事を失えば家族を養えない」「せっかく築いた地位がゼロに戻ってしまう」「ほかでやっていく自信がない」など、不可抗力だと信じていることやエゴが自分をムリヤリ引き止める。気の迷いかもしれない、と考えを打ち消し、変化を拒む。

 

 

冷静でない時は判断を誤る可能性もあるので、なんでもかんでも気の向くままに動けばいいというわけではないが、正しい直観を見極めるには訓練も必要なので、逃げの姿勢のままでは何も変わらない。

 

 

 

ディオールだってブランドくらいは多少知っているけれど、内部の動きなんて知らない。ただ、世代が変っても愛される店はかならず微生物のように変化しているはずだ。

 

 

 

 

ここでわたしの体験談を。

「変わらない味」と何十年も親しまれている店は、少しずつ変えていることが多い。知り合いが長年通うラーメン屋について言っていた。わたしも地元のお気に入り店について、そういえば味は少しずつ変わっているなと思う。昔のままならたぶん今は食べていない。基本は変えず、しかし時代にあった味覚というものがあるのだ。本当にまったく変えていない店は、うまくいっていなかったりする。

 

 

ラーメン屋とディオールを一緒にしたら怒られるかもしれないが、一緒だ。

 

 

しかしディオールの歴史を見たらまだ100年も満たない。なら、寺田本家の方がすごいんじゃないか。もちろん、規模も認知度も比較にならないけれど。

 

 

数百年続く寺田本家に女の子しか生まれないという不思議な縁も、それに関係ありそう。男系だとつい跡取りに固執して、本来不要な思惑が入りやすいのではないか。家を守るのが直系である女性で、蔵を回すのが外から来た男性という形は、自然法則にマッチしているのだろう。ハチやアリが女王を中心に世界を形成するように。家族、酒蔵、という単位は違えど同じ。ということは、大きい組織もこの法則に乗っとってやればうまくいくはずだと思った(必ずしも生まれた時の性別は関係なく、役割として)。

 

 

HIROに話を戻すと、そういえばEXILEでなくともモー娘。やAKBの方が先にやっている。ただ、詳しくないのだが、これら女性アイドルはまだ人気なのだろうか。最近はk-popっぽいグループをよく見かけるけど。最近、名前が変わったアイドル会社は確固たるブランドを確立していたようだが、あれは歪んだ忖度が生み出しただけなのか、多少は”発酵”の過程を踏んでいたのだろうか。

いま有名なグループが10年、20年先も残っていたら、「ああ発酵がうまくいったんだな」と思う。

 

 

大きなヨソの組織の話はいいとして、自分ごとで考えてもやはり同じだ。だって自然法則なのだから。たとえば不本意な形で家族と離れることになったときも、やむをえない流れだったのであれば、受け入れて身を任せているうちに、次の出会いややるべきことは必ずある(死別だとつらいけれど)。

 

 

わたし1人のことをとってみても、たとえば仕事を辞めたい時に、「でも次見つかるか分からないし」「自信ないし」と思っても、本当はどうしても辞めたい! と思ったらしたがってみたら面白いことになったりする。過去、この逆の話があった。縁もゆかりもない業界に、ただやってみたいという理由で飛び込んで、その後の人生に大きな影響を与える経験をさせてもらったこともある。昔いた会社は給料もよく、比較的安定していたが、ここにいたらダメだと逃げるように止めた。それが正解かは分からない。選んでいない未来は比較しようがない。だから今がベストと思うしかない、というのは一理あるが、嫌なことも含めて後悔していなければそれが正しい道なのだ。後悔しているなら今から取り戻しに行けばいい。

 

 

矛盾なく人生を歩むことはなかなか難しい。でも、それに近づくことは努力次第で誰にでもできるのだと思う。微生物のような人生を。

 

 

日本酒が飲みたくなってきた

 

 

 

PMSは自分の本音に気づく機会

月経前症候群PMS)がひどい。普通は思春期に多いという記載をみたが、わたしはアラフォーから顕著になった。ないに越したことはないけれど、最近、自分を顧みる機会としてとらえると、自覚のなかったことに気づくようになった。

 

 

けっこうしんどいんです



 

下腹部が重いのはよくあることで、生活に支障をきたすほどの痛みは数か月に一回あるかないか。それはあまり気にしていないが、イライラがすごい。真っ只中にいるときは、「わたしはただ純粋に腹が立ってるんだ」と信じているけれど、明らかにこの時期になるとよくブチギレるし、「人生終わりだ、もう死ぬしかない」と絶望するのもこの時期。月経がはじまると途端に収まるのだからわかりやすい。同居の母も内心「うわ、生理前だ」と思っているらしい。そう思われるのも腹立たしいが、事実なので仕方ない。

 

 

「本来、PMSなんてないのが健康な状態だ」というのをどこかで見かけた。でも、わたしは人生でいまが一番健康のはずだ(食中毒の記事でも書いた)。過去は仕事で常に緊張状態、ストレスは高く、食事もジャンクフードや外食多めだった。今はその真逆。別のストレスはあるけれど、前と比べるとずっとマシ。なのにPMSはそのころからの方が顕著。

 

 

わたしはPMSがひどくなったのは、身体の機能が正常になった証だと思っている。

月経では血を外に出す。月経は哺乳類の雌では当たり前の現象だが、男の場合、普通に生活していて血を血のまま排出することはない。便や尿、汗や皮膚、毛など正当な排泄ルートよりも短縮して直接血液を排出するのは、女性の月経のみ。これって意外とすごいシステムだと思う。

その時ついでに血液中の汚れも排出しているので、月経はデトックス期間でもあるという。臓器や皮膚などを通るよりも直接的なので、排毒効果も強いだろう。

女性と男性の平均寿命の差はそのまま月経の合計時間という話を聞いて、あながちウソでもなさそうだと思った。

 

 

しかし汚れが溜まりすぎていると、反応が鈍るものだ。前に食中毒の話を書いたが、身体が敏感な方が何かと反応が早い。それは身体が弱いだけの場合あれば、敏感だからこその正常な反応の場合もある。わたしは大人になって以降、今が一番心身ともに健康なので、後者だと思っている。

 

 

 

そこで、最近ひどくなったPMSのイライラについてもう少し考えてみた。

すると気づいたのは、PMSの時に爆発するのは、大抵、ずっと前から気になっていることだ。普段なら、「気になるけれど、まあ少しぐらい我慢するか」と、気持ち的にも余裕があり、理性的に考えるようにして気をそらしている。それが、月経前になると「絶対に許せねえ」となる。そう、いつも気にしていないフリをするだけで、本当はまったくそうではないのだ。とすると、PMSのイライラは自分に正直になった結果といえる。

 

 

最近の話で、PMSでキレてあるものを大量に捨てたことがある。勢いでやってしまったので翌日は罪悪感もあったのだが、実は前から捨てたいものだったので、その次の日には「よかった」と一転していた。キレる前に対処しておけばもう少し穏便にいっていたなと反省した。

 

 

また、母がもっと真剣に考えるべきことを適当にしているのにもブチ切れたことがある。いつもなら、”家族と言えども人は人”、本人が何もしないという選択をするなら、その意思を尊重すべきだと思っていたが、PMSで「もっと自分のことを考えろ、行動すれば済むことを先延ばしにしてんじゃねえ」と爆発。

 

 

怒ることは良くないし、たとえ良かれと私が思っても、必ずしも相手にとっていいことではないだろう。基本的にそういう価値観なので、熱血教師のような怒りに、我ながら「珍しいな」と後になって思った。

 

 

しょうもないことだが、わたしにとっては相当に我慢していることが、PMSの時期に意外とある。これに気づいて振り返ると、そろそろ爆発しそうな案件が一つ浮かんだ。PMSでめちゃくちゃになる前に、穏やかに解決したい。

 

 

「健康ならPMSにはならない」という人は、心身ともに健康なのだろう。しかし現代にそんな理想的な生き方をしている人が多いものかな? どこかにそういう世界もあるかもしれないが、わたしの周りは、いいことも悪いこともそれなりの人々ばかり。だからPMSは通常運転といっていいかもしれない。理想の生活でもないのに、PMSがない、という人がいたら鈍感になってしまっているだけかもしれない。

 

 

PMSにならないのが普通」ということばに引っ張られて「今の自分はダメなのか」となってはいけない。自分を責めるくらいなら、まだまだ我慢していることがあるのだな、頑張ってるなわたし、と思うことにしている。そして、気づいていなかった怒りや思いがあふれ、そこで初めてわかる事実もある。身体からのサインであり、それはPMSという機会を通じて現れるのだから、むしろラッキーだ。身体はいつだって良くなりたがっているのだから、すべての現象を自分の糧にしたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

すべては自力。無料から始める美容のススメ

健康と美容のため、いままであらゆる整体やマッサージ、鍼灸パーソナルトレーニング、いくつかの化粧品を試してきた結果、「他力よりまず自力だろう」と思って一度全部やめてみた。

 

 

仕事で緊張状態が続いていた30代前半から整体や身体のメンテナンス系のお店に行くようになり、かなりの種類を試した。

 

 

エステとか高級基礎化粧品などお金がかかる美容にはもともと興味がなく、コスメは20代前半がピークで年々興味が薄れている。仕事をやめた今は眉毛とリップしか塗らない。好きなイフルエンサーがプロデュースした化粧品が気になって買っていた時期はあったけど。

 

 

表面的なことにお金をかける意味を感じないが、美に興味がないわけではない。

 

 

素肌が美しければファンデーションなんてナシか薄くていいだろうし、細かいメイクをするにしてもパーツ自身の良さありきだろう。くすんだ目元に塗ったアイカラーより、白い目と明るい肌で何も塗っていない方がいい。もし塗るとしても、本体そのものを磨いていたら化粧ノリもいいはず。何をするにもまず自分の身体が先、ということを考えている。

 

 

わたしは身体のクセがあってねじれているので、整体などの店にいくたびに「どうなっていますか?」「どうすれば治りますか?」と聞いていた。本当の答えを知りたいというよりは、このジャンルの人はどう考えているのだろう? と意見が知りたかった。ただ、どこも明確な答えは返ってこなかった。整体やパーソナルトレーニングは多少正解に近いものを示してくれたが、根本原因を探るまではいかなかった。

 

 

みんな自分の専門以外は知らないし、根本原因から探ることはしないのだな、と思って諦めた。

 

 

同時進行で、さまざまな健康・美容情報も集めていたので、正誤はともかく、できることは試して実践してきた。健康ジプシーにも飽きた頃、時間的余裕もできて自分と向き合う時間が増えた。そしたら、根本原因なんて自分が一番わかっているじゃないか、と気づいた。

 

 

わたしの身体がねじれているのは、暇すぎてオンラインゲームばかりしているからだった。夢中になりすぎて、長時間同じ形が固まっているので、それが癖付いてしまった。身体がねじれると、変なシワができてしまった。歳のせいでもあるだろうが、生活習慣の方が影響が大きいと思う。

 

 

そして、オンラインゲームをやりすぎるのは、自分の生活態度の問題だった。やりたいことがあまりなく、YouTubeや動画再生して耳で音を聞きながら、ゲームばかりしている。だったら、この生活習慣を改めれば姿勢改善できるはず(これが一番難しい)。

 

 

いくら店に行って一時的に身体の歪みが取れたところで、同じ生活をしていたら一瞬で元に戻る。そんな当たり前のことを忘れていた。専門家の話を聞くことで意識するきっかけになるし、プロの手にゆだねることで変わることももちろんある。でも、毎日のように行くわけにはいかず、結局はすべて自分次第だろう。

 

 

化粧品も、いままでほぼ化粧水も乳液も使わず馬油だけで過ごしていて、冬以外はそれだけで十分だった。わたしは子どもの頃から乾燥肌なので、冬は乾燥しやすく、おかげでシワもできやすいのが難点。でも、本来であれば何も問題なく生きていける機能を備えているはずだ。健康に生まれたなら、完璧な状態のはず。

 

 

そうやって見直すと、まず笑い方が引きつっていたせいで顔の筋肉の動きが不自然。愛想笑いが苦手なのに、仕事で頑張っていたのだ。ねじれの元々の原因も仕事だった。身体の片側を強ばらせないと落ち着かないので、それが通常運転になっていた。

 

 

乾燥については詳細は原因は分からないが、心理的作用もあるし、内臓が弱っている可能性もある。身体のねじれによって骨格全体がゆがみ、片方の筋肉がついて片方落ちてしまっている。それによって片側にシワができやすくなり、そっち側だけたるんで毛穴も大きくなりがち。

 

 

結局、すべては身体の歪みに起因していた。エステで顔だけ触っていたり、マッサージにいって筋肉だけもんだところで、わたしの場合は根本解決にならないのだ。乾燥についてはもう少し深堀りして考える必要があるけれど、極論をいうと、南国生まれのDNAだったら乾燥に弱い可能性もある。もちろん、自分の祖先が南国生まれかどうかなんて知らない。3、4代前が現在より少しだけ南というのは知っているが、それより古い祖先がもっと南の可能性はゼロではない。

 

 

乾燥肌だからと、よく分からない横文字の成分が入った化粧品を使い続けるのも抵抗がある。いくら効くとしても、高価すぎてもこまるし、基礎化粧品を塗りすぎてテカテカにはなりたくない(どうしても原因が分からないなら、深いシワが刻まれるよりはテカテカの方がマシと判断するかもしれないが)。

 

 

乾燥はひとまず置いておくとしても、それ以外は日々の努力で何とでもなる。顔が一番気になる部分とはいえ、結局は身体全体の問題であり、スタイル含めての美なのだ。諦めさえしなければ、健康も美しさも手に入れることはできる、と信じることこそ、第一歩だと思う。

 

 

だからまずは歪みを取るストレッチや動きをする。階段の上り下り、椅子から立つとき、外を歩くとき、例え座っていようとすべてが筋トレだ。そこで身体をまっすぐにし、肚に力をいれてリラックス。時間があればちょっと重いものをもって、弱っている側を鍛える。

 

なにより、そもそもの習慣を改める(努力をする)。ゲームをせずに済むように工夫する。立つ時間を増やす。

 

 

できなくても、気づいたら意識する。これだけでもかなりかわるはずだ。

 

 

やることをやった上で、店にいけばもっと良い効果が得られるだろう。よくメディアで芸能人やモデルの健康法や美容法を紹介しているが、あの人たちは美しさを保つのも仕事のうち。テレビで紹介している方法なんてごく一部だろう。言えないことや言いたくないこともあるだろうし。それを見て一般人が表面だけ真似しても意味がない。もし自分が芸能人なら? モデルをやるならどうしているだろう? と考える方が近道できるだろう。

 

 

そうそう、こないだ「かつみさゆり」のさゆりちゃんを久々にテレビで見て、その美しさ、特に足のきれいなことにびっくり。バービー人形よりさゆりちゃん人形だろ、というくらいスタイル抜群。ぶれない芸風とかわいらしい顔もあって、なんかのマスコットキャラクターにしか見えなかった。

 

 

早速、インスタや動画を見ていると、美脚の秘訣、のような動画がアップされていた。

 

 

しかし動画を見ると、ありきたりな方法だった。

きっと具体的な方法よりも、美しい足を保とうと努力する姿勢が美脚を生み出したと思われる。いつも足を見せる衣装を着て、テレビや舞台でたくさんの人に見られていたら意識せずにはいられないだろう。

通りすがりの一般人に「あら、きれいな足ね~」なんてさんざん言われてきただろうし、それが効果絶大なんじゃないだろうか。さゆりちゃんの美脚になりたければ、さゆりちゃんのように見られることを常に意識し続ければいいはず。

 

 

ということで、わたしも外を歩くときは「さゆりちゃんマインド」みたいなものを勝手に設定している。ミニスカは履かないので気分だけね。すぐ忘れるけれど、何も考えないよりは効果があるだろう。馬鹿にされるのが分かっているので人には言わないが、「自分には絶対無理」と最初から決めてかかっている人と、「わたしも頑張れば、少しでも近づけるかも」と思っている人が同じなわけない。都合が良くて人にも迷惑をかけないことならば、信じたもの勝ちなのだ。

 

 

さゆりちゃんごっこを始めたのは最近だが、体型維持だけは若い頃から異常に固執しているので(崩れたら人生終わり、くらいの強迫観念だった時期も)、スタイルはたまに褒めてくれる人もいる。遺伝だと言われると困るが、それだけではなかった!と自分だけは信じている。

 

 

 

 

 

抽象度と夕飯メニューとセンスと

質問です。

 

豆乳ごま鍋とシチュー

五目そばと八宝菜

 

それぞれ、同じだと思う? 違うものだと思う?

 



 

わたしが豆乳ごま鍋を作った次の日に、母がシチューを作った。

 

わたしが五目そばを作った次の日に、母は八宝菜を作った。

 

 

知らない人のために説明すると、豆乳ごま鍋というのは、豆乳と練りごまの入ったコクのある出汁をベースにした鍋。シチューは牛乳とバターでコクを出しているものなので(基本はルーだけど)、和か洋か、具材の違いしかない。

 

 

わたしにとって豆乳ごま鍋はトロミのついていない和風シチューだし、その日の五目そばの具材は翌日の八宝菜とまったく同じで、味付けもほぼ一緒。麺があるかないか、スープの量とトロミくらいしか違いがなかった(一般で知られる五目そばとは違うかもしれないが、今回は八宝菜とほぼ同じだった)。

 

 

母に「前日の夕食から連想して作ったでしょ?」というと、「違う」という。ならば、無意識で連想したに違いない。そうでなければ、こんな似たり寄ったりの料理をつくるはずがない。しかし、それも「違う」らしい。無意識なのだから、違うかどうかもわかってないと思うのだが。

 

 

前日の残り食材を流用したかったとか、豆乳ごま鍋を見ていたらどうしてもシチューが食べたくなった、というならまだわかる。でもそうじゃないなら、もっと別のメニューがあっただろうに。と言っても、母は偶然だと頑なに言い張った。わたしが詰めるので意地になっていた可能性もある。

 

 

母に言わせると豆乳ごま鍋とシチュー、そして五目そばと八宝菜はまったく別の料理なのだ。だったら、豆乳ごま鍋の次の日がシチューなのは偶然か? 五目そばの翌日が八宝菜なのは偶然か? わたしからすると、それこそ「違う。偶然ではない」。これは毎日のように観察しているうちの母だからこそ言い切れる話で、他の人が同じことをしてもここまで言い切ることはない。

 

 

母とわたしの認識の違いは、そのまま抽象度の違いといえる。

 

 

わたしにとって、パスタと焼うどんと焼きそばは「麺×”焼きもの”」というジャンルで一緒。焼き魚と焼き鳥はシンプルな塩味なら「動物性たんぱく質×塩味×焼き物」という意味で同じ。タルト(生地)とクッキーも場合によっては「バターと砂糖と卵で作った焼き菓子」という意味で同じ。

 

 

抽象度のレベルはさまざまで、私の中でも基準はない。ただ、料理好きのわたしとしては、どうしても食べたいのでないなら、焼きうどんの次の日にパスタ、焼き魚の次の日に焼き鳥を作らない。料理には焼き物、蒸し物、揚げ物、生という調理法が合って、同じ焼き物でも組み合わせや味付け次第で、少しでも距離を離すことができる。

 

 

おそらく、母は焼きそばと焼うどんは同系列と判断したとしても、パスタは別物。焼き鳥と焼魚は別物。タルトとクッキーも別物(わたしがお菓子作りが趣味だからそう思うだけで、母と同じく別物と捉える人の方が多いかもしれない)。

 

そばとうどんは、麺の違いのみだし、うどん屋にそばがあったり、その逆もあるので、同列と認識しやすいだろう。

 

 

もちろん、それがダメというわけではない。連想して似たようなものを作ってもいいし、無意識でもいい。ただ、センスがないと思うし、無意識って怖いなと思っただけで。

 

 

何にしろ、作ってもらっているなら文句を言うべきではないけどね。

 

 

と思ったら、なんと今夜の夕飯は和風シチューになった。思考は現実化する……(もっと夢のある現実こい)

 

 

 

 

お気に入りの店から足が遠のくきっかけ

5年以上通っているお気に入りの店で、些細な違和感を抱いた。本当に些細なことなのだが、それをきっかけに、別の店に行ってみようかな、という浮気心が芽生えた話。

 

 

店主の商品への愛があふれ気さくな雰囲気も好き。商品そのものの質もよいので気に入っているが、それ以上に店主やスタッフの方と短くても会話を交わすのが毎回楽しみだった。

 

 

店では新作や期間限定商品が出るとSNSで発信しているのを知っているが、敢えてSNSを見ることなく、直接話して確認することにしている。なぜなら、それがこの店のわたしの楽しみ方だから。普段、別の店ならこんなことしない。商品だけが目的のときは、徹底的に事前調査して比較検討している。特にチェーン店とかはね。

 

 

その店にいって忙しそうな時は、余計な会話をしないなど最低限の気を遣っていたし、毎回しゃべると決まっているわけでもなく、さっさと帰る日もある。店主もそれほど気にしていないだろうと思っていた。

 


それがこないだ、いつも通り店に行ってオススメ商品を聞いたところ、「SNSに情報あるんですけど、ご存じないですか?」と言われたのだ。えっ、いまさらそんなこと言うの? と驚いた。この5年、一度も言われたことがなかったのに、ここにきて初めてのことだった。


「知ってます。また見てみますね」と言って、その時は普通に終わったのだけど、ちょっとモヤモヤ。

 

 

 


つまり、「毎回聞いてこなくても、SNS見たらわかるよ」というのを暗に言ったのだろう。そうだよね、時間取らせてごめんね、という申し訳なさと、そんなことわかってるし……という気持ちが絡まって複雑な気分になった。
そんなことわかってるけどさ、商品だけを目的に来てるんじゃないんだけどなあ。

 


店主もスタッフも人間なので、余裕がないことだってあるだろう。その日だけかもしれないし、繁忙期を超えたら元に戻るかもしれない。わたしも常連なんだから店の事情も考えるべきかもしれない。ただ、わたしにとっては、常連だとしても毎回来ることが新鮮で特別なことだったから、この些細な一件が「そうじゃなかったんだ」と我に返るきっかけになった。

 

 

店が何を一番大事にしているか、それぞれ違う。売上かもしれないし、地域に寄り添うことかもしれないし、まあなんでもいい。その店は、こぢんまり小さく経営して、目の前のお客さんを大事にするタイプだと思っていたので、今回の出来事は意外だった。

 


現代はどんどんディスコミュニケーションが広がっていて、大きい店ほど、店員と目も合わないことも増えている。だからこそコミュニケーションできる個人店は貴重になるだろうと思っていたのだけど。わたしが人との接触が少ないからそう思うだけで、世間一般の意見ではないのかな。

 

 

別の視点でみると、こういう些細な違和感にその店(会社)の姿勢がうかがえたりする。

 


例えば繁忙期で忙しいなら、期間限定でスタッフを1人増やしてもいいし、今だけ予約や来店の方法を限定することもできたはず。ストレスなく普段通りの接客ができるように、予約数を抑えることだってできる。本来かけるべきところの経費や労力を怠ったかもしれない。

 


この店はそうじゃないかもしれないけれど、可能性のひとつとして。自分が店をやるなら気をつけたいところ。

 


ひねくれた考察はひとまず横に置いておくとしても、やっぱり店に行くのはちゅうちょしている。モヤモヤが晴れないうちは変に緊張するし、普通に今行くのは迷惑かもしれない、というのが脳裏をよぎってしまうのだ。

 

ただ、店関係なく同ジャンルの商品を見に行きたかったので、これを機に別の店を新規開拓した。新しい店にハマるかどうかは分からないけど、マンネリ打開は悪くないね。

 


少し時間を置いたら、またしれっと行ってみよう。

 

 

 

 

アフェリエイトの今後を考えてみた

はてなやほかのプラットフォーム含め、ずっと無料で使わせてもらっていたが、最近になって、いま使っているのを有料バージョンにするか、ワードプレスでも始めようかなと考えた。

 

 

 

それぞれメリットデメリットについて、ネット検索してみた。するとどのサイトも一様に「ワードプレスアフェリエイト・収益化に向いている」と出てくる。アフェリエイトには興味がないので、そういうサイトの説明文を何回読んでもサッパリ頭に入ってこない。

 

 

わたしは、アフェリエイト目的の記事で、たまにクリックしたことはあったとしても、広告から商品を買ったことがない。そういうサイトは、当たり障りのないことしか書いておらず、書き手のパーソナリティが見えないのがほとんど。断定的な物言いの割に根拠は薄いこともしばしばだし、商品に誘導したいのがあからさまだったりもするので、いくつか見比べないと情報を見極めることができない。

 

 

結局、メジャーな検索ワードで上位のブログはどれもこれも似たような内容なので、さらに自分の知りたい情報をより詳細にして別のサイトを探している。するとマニアックで自分の言葉で書いているサイトを見つけたりする。もし良い情報に当たれば書き手を応援する意味で広告から飛んでもいいが、大抵そういう人はアフェリエイトなんてやっていない。

 

 

わたしはアフェリエイト記事が苦手だ。出始めの頃は画期的だったのかもしれないけれど、読み進めている途中で全く関係のない広告の文字を入れることにいやらしさを感じる。アメブロは特に顕著で、いいねや友達申請してくるので、その人のページに飛んだらアフェリエイトか営業目的ばかりで辟易した。上手な人は広告を挟むのに自然な流れを作っているようだが、アフェリエイト目的のサイトだと分かった瞬間に気持ちが離れるだろう。文面を見れば、本心かただの営業トークか、何となく読み取れるもの。

 

 

もし自分がやるなら、本当におすすめの商品に限りアフェリエイトをつけるかな。ただほとんどないと思う。どんな人も、常に人様に勧めたいものなんてないはず。

 

 

どちらにしろ、もうアフェリエイトの時代ではないだろうと思っていたので、「アフェリエイト 終わり」というキーワードでまた検索してみた。そこで出てきたサイトもまた、似たり寄ったり。3,4ほど読んでみたが、どれも「アフェリエイトは終わりと言われているが本当か?」ということから始まって、最後は「そうでもない。まだ稼げる」という結論でまとめられていた。

 

 

しかしよく考えたら、検索上位にくるサイトはSEO対策バッチリ。「アフェリエイト 終わり(終了・オワコン……)」などのワードでの記事作成を先回りしているはずだ。そこの管理者たちの多くはアフェリエイトの恩恵を受けているだろう。なら、似たり寄ったりの記事になっても仕方ないか。

 

 

彼らの記事では、アフェリエイトが終わらない理由についてあれこれ書いていたけれど、よく分からなかった。専門的な話がわからないというのもあるが、わたしが思っている理由を覆すものではなかったから。もう少し調べれば骨太の記事もあったかもしれないが、めんどうなので止めた。

 

 

わたしは、AIが原因で今のアフェリエイトビジネスは終わると思っている。SEO対策なんてAIにやらせる人が出てくるだろうし、それが広まるのも一瞬じゃないのか。すぐに同じものが乱立する。すると、検索アルゴリズムもそれに合わせて変化し、似たり寄ったりのサイトは上位にこなくなるだろう。

 

 

そもそも、AIに聞けば、膨大な知識から情報を選別して教えてくれるのだから、もはやネット情報を一個人がツギハギしただけの記事は不要だ。個性のない記事も読まれなくなるだろう(わたしの印象として、アフェリエイト記事は没個性が多い)。

 

 

だから少なくとも従来の形のアフェリエイトは縮小していくと思う。「アフェリエイトはまだまだ稼げます!」という記事を書いているようなタイプは稼げなくなるんじゃないか。それがどのくらい先になるかは分からないけど。

 

 

ただ、商品に心底惚れこんでいる人がいて、そこの広告塔になるくらいの記事を書くなら話は別かもしれない。

 

(某化粧品に惚れこんだ人が、周囲に勧めまくって、使い方を研究して、代理店契約を結んで、しまいにはサロンまで開いた人もいるというのを聞いた。そこまでいったらあっぱれ)

 

 

代わりに価値が出てくるのは、その人の言葉でその人の主観で書かれた記事だと思っている。たとえばわたしが書くような(笑)間もなく人間の知恵をはるかに超えるAIに、検索能力や要約能力なんて勝てやしないのだから。

 

 

そもそも、検索アルゴリズムだって、検索者にとって有益な情報を得るためのプログラムなのだから、本来であればSEO対策なんてできない方が健全だ。少し前にメディア戦略、特にオウンドメディアのSEO対策には自信があるという会社の人と話したのだが、考え方に全く共感できなかった。コンテンツの中身がからっぽなまま、SEO対策だけに注力していたのだ。これで自信があるなんてよく言えるよなあ、とあきれたというか感心したというか。

 

 

これから文章を書く人が稼ぐ方法は、自分の文章そのものを商品にするか、文章でファンを獲得して別の商品を売るか、の2つだと思う。ただどちらも自分はしっくりきていない。ファンもついていないのに有料にしたところで読者ゼロのままでは意味がないし、今のところ売りたいものもない。ただ書くのが好きだから書いている。

 

 

最初に「ワードプレスは収益化に向いている」というのがあったけれど、それもまた関係なくなってきている。

わたしがワードプレスに再び興味を持ったのは、ネットという空間に自分の家を持ちたくなったから。「文章を書きたいだけならワードプレスは不要」ということもかの類のサイトすべてで書かれおり、まあそうなんだろうと納得する一方、もっと書きたいわたしからすると、無料プランでいる限り、どこも他人の家にお邪魔している感覚だ。

 

無料プランは騒音がうるさい線路横のアパート(無料だと問答無用で広告がつくから。そういえば、noteは無料でも広告がつかないのがちょっと怖い)、有料プランにしたら静かなマンション住まい、ワードプレスは一戸建て、というところか。でも賃料はかかるんだよな。

 

 

さてマンションか一戸建てか。迷うわ。