おやつく後記

日常のことなど思いつき

コピーメイドしてみた

今月、初めての体験をいくつかした。まずひとつめは「コピーメイド」。

 

 

お気に入りの服がボロボロになったので、バラして同じのを作りたいなと思って調べてみた。わたしがやりたいことは「コピーメイド」というらしく、想定していたものと全く同じだった。世の中にそういう単語がある時点で、成功したも同然なのだ。

 

スカートみたいなワイドパンツをつくった



 

 

さっそくバラして、アイロンをかけて紙に移す。手順が分からないので写真を撮りまくった。脳内だけで手順を考えようとしたが無理だったので、似た作品の手順を見ながら、紙に書いてなんとなく把握。あとは裁断して縫うだけ。

 

 

ポケットはきれいなままだったのでそのまま活用することにした。

 

 

途中、縫い合わせる場所を間違ってパンツのはずがスカートになってしまい、大幅なロスがあったものの無事完成。

出来上がりは若干サイズ大き目。また、腰回りの型紙のズレがあったり、手順がおそらく間違っていたため、やや歪さはあった。が、初めてにしては、かなりうまくできた。

 

 

作ってから気づいたが、内側にポケットがあるタイプのものは初めてで、しかも初心者(しかも初コピー)にはハードルが高かった。あと、腰回りの型紙を取るのは難しい。タックもよく分からなくて適当に入れており、なんか間違っている気がする。

 

 

それでも、自分としてはかなり満足している。もともと部屋着にする予定だったので、見た目に多少難があっても問題ない。良い布だし、肌触りもよい。耐久性もいいはず。

 

 

洋裁初心者ながらエプロン2着を短期間でつくり、3着目でコピーメイドまでできたのは、YouTubeのおかげだと思っている。細かいテクニックを確認したりもするが、一番、参考になったのは、ズバリ「手つき」と「流れ」。動画投稿している人は、洋裁のプロかそれに近い人ばかりだろう、本当に流れるようにミシンで塗っている。スイスイと気持ちよく進んで、カーブだろうが何だろうが、ちゃんと目的の縫い目を残してゆく。

 

 

たいていは手元が写っているので、それを見ているわたしは軽い疑似体験ができる。何も見ていない頃は、ひとつひとつの作業をビビリながらやっていたのが、YouTubeで手元の動画を見ると、別にすごいことをやっているのではなく、動き自体はごくシンプルだ。

 

そして、手際が良く迷いがない。それもまた、やるべきことを順番通りに丁寧に押さえているだけで、ひとつひとつの作業は動作と同じくシンプルなのだ。

 

 

プロの手つきと流れを見ることで、「洋裁は簡単なのかもしれない」と思えばこっちのもの。初心者のくせに、動画でやっている人のように迷いなくやってやった。パターンの取り方が悪かったので出来上がりは素人丸出しだったが、それでも「やればできる」ことを知った。何回も作るうちに、わたしもスイスイ作れるようになるだろう。

 

 

動画がなければここまで上達は早くなかったはず。ひとつひとつのテクニックを知ることも役に立っているけれど、やっぱりイメージを増幅させるのには動画がもってこいだ。こないだは、ディオールの服の製作現場の動画を見て、そこのデザイナーになった気分に浸った(笑)自己洗脳が得意なので、こういうのがあると非常に便利。

 

 

自分の引いた図面で服を作るというのが楽しすぎて、暖房のついていない部屋で身体の芯から凍えるまで夢中でやってしまった。「やった、できた! ……寒い」みたいな。夢中は温度を超越する。

 

 

コピーが可能であることを実証し、反省材料も多数見つかったので次はレベルアップするだろう。さて次は何をつくろうかな~

 

 

 

洋裁ができるなら建築もできるな、と思った。服も家も考え方はさほど変わらないのだから、家を建てたのと逆の順番で解体していけば建築手順もわかるはず。細かいところは本やYouTubeの助けを借りよう。あとは、土地と資材と人件費の調達ができて時間があればできる。やらないけど。

 

 

 

ちなみに今月のほかの「人生初体験」は、①本場タイの激辛カレーを作って食べて胃腸がおかしくなったこと ②それに伴い、初めてアジア系食材店に足を踏み入れたこと ③石油ストーブの替え芯を交換したこと ④漬物石でウエイトトレーニングを始めたこと ⑤ローズヒップを収穫したこと  ⑥ナンテンを収穫したこと  

などなど。この歳になっても初体験があるというのはありがたいことですね。

 

そういえば去年の今頃、ウルシにかぶれて顔が倍になって体中がはれ上がっていました。ここまでひどくなった人はあまりいないじゃないだろうか、と思うくらいすごかった。

気が向いたらそれぞれまた書きます。

 

書道の展示を見て思ったこと

ある公共スペースで小学生の書道の展示準備をしているところを通りがかった。見ると「納税」「納税」「納税」、たまに「税務署」「青色申告」。小学生らしからぬ文字の羅列に、なんかヤダな……と思ってしまった。

 

 

こんな書写はいやだ(?)



 

小学生が書写の授業で課題として出されたのが「税に関することば」とかだったのだろう。子どもたちの上手な字はほほえましいのだが、なぜに税金?   強制的に余計な観念を植えつけられるだけで、邪魔でしかないと思うのだけど。わたしが小学生のころは、大まかなテーマはあれど別の何かに結び付けるようなことはなかった。

 

 

税の大切さを教えるとかなんとかいう理由を付けているのだろうが、ひねくれもののわたしからすると、税金について国民が疑問を持ち始めているので、子どもの頃に納税の大切さを説くことで、大人になってから疑問を抱かせないようにしているのだろうなと思った。考えすぎ? だとしても、書道に直接関係のないことをこじつけるのは、どちらにしろ気持ち悪い。いくらこの理由について正統性が認められようと、決定に関わった官僚(?)たちは絶対モテないと思う(笑)

 

 

どうせなら、1人でも「タックスヘイブン」とか「減税」「消費税撤廃」とか書けば面白いのに、と思ったが現実的ではないことも分かっている。これまた大人の入れ知恵で書いたら、官僚と同レベルでヤラシイわけで、子ども自身が書きたいと思わなければ意味がない。だいたい、わたしの記憶では小学生時点で納税なんて言葉は遠い世界の話であって、考えたこともない。よほど時事に関心のある子でもない限り、授業で習ったから知っているだけだろう。しかも、納税こそが義務であり正義である、という付加情報とともに。

 

 

そんな小学生が、かつては消費税というものがなく、3%から5、8と上がっていったことを知っていて、なおかつそれを疑問に思うなんてことはないのでは? 消費税が悪とは言わないが、なぜ必要なのか、減税は不可能なのか、など考えることは意味があるし、真実を習えば疑問に思う子が出てくるはず。国にとって都合の良い情報しか盛り込まず、しかも表面的な教育で、”考える力”なんて養えるものか。

 

 

この環境で、もし「タックスヘイブン」なんて書く子が現れたら、親の影響かただの”イキリ”にしか見えず、それはそれで純粋に味方できない気がする。そんな稀有な子がいたとして、表に出る前に先生が止めるだろうから、よほど強い意志がなければ実行は不可能であり、そこまでやるのはちょっと面倒な子だろうな、と想像してしまう。

 

 

わたしが子どもだった時は、与えられたものを受け取るしかなく、自分の意思を通せるなんて思ってもみなかった。しかも自己肯定感が低かったのでなおさら。それでも、大人になってから「あの時学んだことは変だった」と思えるようになったので、教育が歪んでいても、案外取り戻せるものかもしれない。

 

 

自分の話をすると、中学の頃の社会の授業で「”株式会社”というのは、その会社を応援したい人が株を購入する仕組みである」と習った記憶があるのだが、大人になってから、実のところマネーゲームのコマのように考える人が多かったり、「会社は株主のためにあるもの」という意見を聞いて、なんだ全然違うじゃん、と幻滅したことがある。

 

 

理想を教えるなら全然違う現実もワンセットにしろよと思うのだが、受験勉強には必要がないから教えないのだろうか。少なくとも、理想論だけ教える先生がまさか株式投資なんてしてないですよね、といいたい。

 

 

この話は、「気づく」というほどのエピソードではなかったが、なんか変だ、と思えたことは一歩前進。子どもの頃の真実が、必ずしも真実ではないことを知るきっかけになる。

 

 

わたしの場合、「仕事だからこうするけど、プライベートだったら絶対やらない」という二枚舌人生をやめようと決めてから、できるだけどんな場所でも考えと行動を一致させるよう努力している。

だからもし自分が先生なら社会では「株式会社の始まりはこうだったけど、今は違う要素が大きいよね」と教えたいし、書写では「税金についての文字を書いてもらうけど、”納税”以外にも言葉はあるよ」っていいたい。そんなことは許されないだろうから、まあ先生はできないだろうな。

 

 

 

 

「唐揚げにレモンをかけますか?」

いま放送しているドラマの脚本家が坂元裕二を尊敬しているらしい。へえ、そうなんだと思っていると、タイミグよく動画サイトのおすすめ一覧に、7年前の同氏のドラマ「カルテット」が出てきたので、懐かしくなって見てみた。

 

 

 



 

 第1話の「”唐揚げにレモンをかけるか”問題」の話を見て、忘れていた記憶がよみがえった。

 

 

共同生活を始めたカルテットの4人が夕食で出た唐揚げについて議論するシーン。

 

 

――大皿に乗った唐揚げに、黙ってレモンをかける別府司(松田龍平)と世吹すずめ(満島ひかり)を見て、家森諭高(高橋一生)が「なぜレモンを勝手にかけるのか」と制止する。2人はなぜ止められたのか分からない。「レモンが嫌いだった?」と聞くと諭高は「そうではない」という。巻真紀(松たか子)に意見を求めると「レモンをかけたくないかどうかが問題なのではなく、レモンをかけるか”聞く”ことが大事なのではないか」といった――

 

 

わたしはこれ以降、唐揚げレモンをはじめ、大皿料理に何かをかけるときは必ず確認を取るようになった。ドラマ以前も聞いていたような気もするが、意識するきっかけは確かにこれだった。今までそんな風に考えたこともなかったのだが、今回7年ぶりに見て、まさかドラマがきっかけだったとはと驚いた。

 

 

唐揚げにレモンをかけることに大多数の人が抵抗はないだろうが、その意見が全員一致しているとは限らない。それを食べる人たちに確認を取ることは、相手を尊重するという意思表示なのだ。

 

 

わたしの場合、同席者に確認した際に「レモンをかけるな」といわれたことは一度もないし、わたしもレモンを勝手にかけられたところで別に何も思わないのだが、嫌な人もいるかもしれない。今だと、レモンの好き嫌いよりも、他人の絞ったレモンに抵抗を示す人の方が多いだろう。

 

 

唐揚げではないが、数年前に家族で鍋をしたとき、反省したことがある。

 

 

いまでは大人数で鍋を食べるときは、直箸厳禁が当然だが、わたしが学生の頃は自分も周りも気にしていなかった。新社会人の頃に嫌な人もいることを初めて知り、今ではすっかりなじんでいる。でも家族の食事は例外だった。

 

 

家族だから気遣いは不要だ。しかし、数年前から義姉が加わっていたことを忘れていた。鍋をしたとき、みんな直箸の中、義姉はあからさまな態度はとらなかったが、明らかにためらっていたのを見て、はっとした。いくら夫の家族でも直箸が嫌なのは理解できた。

 

 

わたしは誰が相手でも直箸など気にしたことがなかったので、当初は嫌がる人を見て「潔癖だな」と思っていたのだが(周りに合わせているうちに抵抗が出てきたが)、育ってきた環境が違えば価値観も千差万別。自分が多数派と思っていても違うかもしれないし、多数派だとしても少数派をにぎりつぶしていい理由にはならない。

 

 

今回は嫌悪感が出やすい食事の話だったが、それに限ったことではない。日々の小さな思い込みは、知らないうちに他者に違和感や嫌悪感を抱かせているかもしれない。全方位に気を遣って自粛する必要はないけれど、「自分と他人は意見が違うかもしれない」という大前提は忘れずにいたい。

 

 

 

 

ちなみにドラマのその後のシーンで、「『レモンかけますか?』と聞かれて、『かけません』なんて言えないだろう」「じゃあ、何て言えばいい?」ということで少しモメていたが、そこまで気を遣えというのは勘弁してほしい。

この人たちは美容院で「かゆいところがありますか?」と聞かれて、あっても言えないタイプなのだろう。

 

 

ただのドラマのワンシーンが、その後の自分の行動を変えてしまうなんて面白いなと思った。いや、無意識なだけで意外と刷り込まれていることはあるかもしれない。

 

 

最近、ドラマを1本見る集中力がないので、人生に影響を与えた唐揚げのシーンは別として、飽きたら適当なところで切り上げようと思っていたのが、久しぶりに最後までのめり込んでみてしまった。坂元裕二はやっぱりすごい。

 

 

 

ところで、坂元裕二を尊敬しているという若手脚本家のドラマを今期初めて見ているのだが、けっこう好きな反面、仄かなわざとらしさが気になる。坂元裕二という事前情報が邪魔をしているかもしれない。

 

 

ある人が「真面目なものづくりは素晴らしいが、真面目さを押し出すものづくりはダサい」というようなことをSNSでつぶやいていて、それだ、と思った。確かに、いまどき珍しく正統派で丁寧に作ったことがよく分かる。が、それを前面に押し出されると、見ている側は興ざめする。真面目だから良いのではなく、単純に面白いと思ったドラマが、実は真面目に作っていた、と後で知るくらいがちょうどいい。

 

 

 

火曜ドラマ『カルテット』|TBSテレビ

 

 

 

 

 

スイーツイベントの件で思ったこと

「スイーツイベントで購入したマフィンが、糸を引いている」というツイートが目に飛び込んできた。該当店のSNSやレビューなどから、いかにその店がひどいかという話で盛り上がっている。

 

 

 

わたしもお菓子づくりが趣味なので他人事とは思えず、下世話ながら追ってしまった。自分も気を付けようという戒めの気持ちがわいたのと、今回の件は現代だからこそ起こった出来事なのかなと思った。

 

 

 

世の中は需要と供給

 

まず、今回の店の商品写真を見て、正直いうと「これが売れるのか」ということにかなり驚いた。言葉を選んでいうが、わたしが作ったとしたら、いくら味が良かったとしても、この見た目で人にプレゼントしない。しかし、例え少数でもお金を出して買いたい人がいるのだから、世界は広いなと。いや、見ただけでは分からない魅力はあるのだろう。

 

 

嫌なことを書いてしまったが、他人が何をするのも自由だ。わたしは石橋を叩きまくって壊すレベルの慎重派。気心知れたご近所さんにプレゼントするときでも、見た目や味に異常に気を遣うし、褒められても真に受けないようにしている。だから堂々としたこの店主がうらやましいとさえ思った。

 

 

この店で購入経験のある人によると、「昔は見た目も良くておいしかった」とのこと。「ならば、ここ数年の間に何かあったのでは」という推測勢によっていろいろ議論されているが、真相はさておき、それでも店が続いているのならどこかの誰かひとりでも需要があるということ。今回のような事件さえなければ、第3者があれこれケチをつけることではない。

 

 

衛生観念は人それぞれ

 

 

とはいえ、SNSを見る限り、衛生観念やその他もろもろ、心配材料はたくさんあるので、事故は起こるべくして起こったとも考えられる。購入者で重篤な人がいないことを祈るが、続けていればもっと取返しのつかないこともあり得たから、いまストップがかかったことは幸いだった。

 

 

素人の衛生管理のずさんさについて指摘している人がいるが、衛生について気になる度合いは人によって違う。気になる人は「ちゃんとしたお店以外の料理は食べられません」というし、気にならない人は本当に気にしない。衛生観念は大事だし、わたしも人のことはいえないが、現代はちょっと行き過ぎているかもなとは思う。

 

 

ちなみに、「お店なら大丈夫」というのは今回の店を見てもわかるようにアテにならない。わたしは店構えを見て、自分の衛生観に合うかどうかを判断しており、多くの人も似たような感じだと思う。かつてバイトしていた喫茶店は、個人店ながらプロ意識が高く、衛生面は完璧に近かった。そういう店は平凡だとしても手入れが行き届いていて品がある。ただし表面的に問題がなさそうな店でも適当なところは意外とある。

 

 

必ず消費期限内の食材しか使っていないと言い切れるか? 掃除をしっかりして、清潔に保っているか? トイレに行くたびに、丁寧に手を洗っているか? 

 

 

今回のような事件があればいろいろと明るみになるが、従業員を雇っていないような店主1人や家族経営の店であれば、詳細が知られることはない。疑惑なんてあげ始めたらキリがないので、現場を目撃しない限りは信用するしかない。そもそも、ここまで考えもせず、なんとなく清潔そうな店構えなら信用するだろう。逆に怪しい店は、前に立っただけで本能的に避ける。レビューがあれば参考にしつつ、最後は野生の勘みたいなものに頼るものだ。

 

 

例外として「イベント出店しているなら、主催者の厳しい基準をクリアしているからそこそこ良い店なのだろう」という思い込みがあったので、それが信用できないかもしれない、という事実を初めて認識した。今回のようなことは現時点で珍しいケースだとしても、個人店はどんどん増えているので、今後の可能性を思えば、主催者側にとってもいい転機になったのかもしれない。

 

 

 

ちなみに、「昭和の飲食店はそもそも開業のハードルが高いから、衛生もしっかりしていた」みたいなツイートをしている人もいたが、そうとは限らない。詳しくは書かないが、わたしの知り合いで某業界で働く人によると、昭和の複数の有名店で、当時知っていたら、絶対にそこで食べない(買わない)というレベルの衛生管理の店はけっこうあったようだ。知り合いは「さすがに今の時代は大丈夫だろう」といっていたが。

 

 

時代によって違うとはいえ、衛生観はピンキリ。そんなもんだと思う。「だから素人の飲食はダメだ」という人もいるが、素人からスタートしても優良店はある。ただ素人が独学で学ぶにはハードルが高いので、振り落とされる人数も多いのは確か。努力は必要だろう。衛生リテラシーが高くても低くても、とりあえず保健所に許可をもらえたら誰でもやっていい。ただ、お客さんがつくかどうかは、本人次第。あまりにもひどいなら人気は出ないだろうし、つぶれない限りは需要があるのだ(もちろん事故は論外)。

 

 

指摘する人はいなかったのか

 

この考えに変わりはないが、自分ごととして考えると、やはり「誰か周りで指摘する人はいなかったのかな?」という疑問は残る。

 

 

店主は悪意なくやらかしたようだが、今までに危うさを感じた人は1人ではないだろう。そこで、一歩踏み込んでアドバイスしたり引き止めたりする知り合いがいなかったのだろうか。いたとしても、振り切ってやってしまったのだろうか。

 

 

衛生管理が怪しい店でも続いているところは全国にもある。ただ、今回は不特定多数が集まるイベントで、店の雰囲気を知らない一見さんが買い求めるということ、通常とは異なる環境で大量に製造・販売しなければいけないこと、自分はそこに手を出す器ではない、と判断できなかったことが致命的だったのではないだろうか。

 

 

いまは、やる気さえあれば資金も少ないところから誰でも開業しやすくなった。わたしもお菓子屋さんを考えたこともあったけれど、今回のような衛生管理をふくめ、プロとしてやっていくには考えることがありすぎた。「好きを仕事に」なんて言って始めたところで、すぐに嫌気がさしそうなことが目に見えていたので今のところは趣味のまま。今回の件を見て、この感覚は間違ってなかったなと改めて思った。

 

 

すこし昔なら、飲食の開業を考えたときに、素人のやる気だけで乗り切れるものではなかったのではないだろうか。まずは修行してノウハウを学ぶか、そうでないとしても身近な人や、すでに店をやっている人から話を聞いてアドバイスをもらったり。無事スタートしたとしても、聞いてもないのに、おせっかいを焼いてくる人も多かったのではないか。ただの保健所の担当者が、店を見て心配になってアドバイスをくれる、なんてこともあったかもしれない。

そして、誰の助言も受け付けないような店なら、すぐにつぶれていたのではないだろうか。SNSがない時代なら、まずは地元で求められる店づくりをしなければいけない。それを無視してやっていけるわけがない。

 

 

個人の意志が尊重される時代

 

いまは個人の意志が尊重されるようになった反面、個人だけで判断しなければいけない事柄が増えた。おせっかいを焼きたい人も、そこで面倒なヤツという烙印を押されるのも嫌だし、逆恨みされても困る。自分のことに必死で、他人のことなんて構ってられない。

「最低限の基準をクリアしていて人様に迷惑をかけていないなら、ちょっと心配だけど、自分は関係ないことだし、やりたいならやれば?」という事なかれ主義や他人に目を向ける余裕のなくなった現代社会の歪みが、現象として浮かび上がったのではないだろうか、などと考えた。

 

 

ついでに、SNSの登場で素人でもプロっぽく見せる技術が向上したせいで、見ている方も「それなりの人(店)なのだろう」と錯覚しやすくなったのも一因かもしれない。見ている側の前提としている基準が高いので、期待を裏切られたときの落差にショックを受けるのもある程度仕方がない(今回の店はSNSの投稿を見ても疑問に思う点は多かったが)。

 

自分ごととして考える

 

今回のような事件を見て、だれが悪いとかいうのは簡単だが、現場近くにいないと分からない状況というものがあり、関係のない赤の他人がとやかくいうことではない。冷めた世間に文句が言いたくなる気持ちもあるが、それも言っても仕方のないこと。ただ、この件を知って自分ならどうするか、ということはいつも考えたい。

 

 

まず、わたしが店主なら。

客観的意見を自ら取りにいかなければいけないし、常に「何か忘れていることはないか」という意識を忘れずにいたい。これまで通り、臆病なまま、石橋を叩きまくって歩いていこう。

 

 

わたしが周囲の人間なら。

おせっかいを承知で、ダメなものはダメといおう。ちょうど最近、リスクマネジメントが雑すぎる人間を相手に、おせっかいを承知で批判と提案をしたが、まあ嫌な顔をされた(笑) しかしわたしが言わなければ誰も言わないことを知っていたので、それでもひるまなかった。相手のためになっているかは分からないが、わたしはこれで良かったと思う。いうべきことは言ったから、あとは自分で判断してくださいと。

 

 

わたしが、もっと関係の薄い第3者なら。

本人に厳しく言えたらいいが、ほとんどの場合でそうはいかないだろうから、少なくとも本人にはやんわり、周囲にも何か助言をしよう。

 

 

優しい世界というのは、無条件に相手を認めるだけではなく、時には諭す関係性だと思う。

 

 

そういえば、祭りの屋台なんて衛生状況は悪いと思うのだが、今はどうなのだろう。生地の入ったポリバケツを直に道路に置いたりしているのを普通に見かけたものだが、「そんなものだろう」と特に気にしたこともない。

 

別の場所から出来上がりを持ってくるのと、その場で作るのは違うので同列には考えられないが、衛生面でいうとどっちもどっち。衛生系の事故というのは、運も味方しているのかな、なんて思う。

 

そこで買い手としてのわたしができることがあるなら、自分で選び取る勘を養うことと、少しくらい変なものを食べても大丈夫なように免疫をあげておくこと、だろうか。

 

 

 

 

 

洋裁はじめました ~初心者ものづくらーの心得~

洋裁をきっかけに、初心者がものづくりをするときの心得を考えた。最後、飛躍したけど、結局、やろうと思えばなんでもできるだろ! という話。

 

 

 

 

初のエプロンづくり

 

今年、エプロンを2着つくった。これまでミシンを使って作製したのはクッションカバーや巾着袋くらいだったのだが、自分のエプロンがボロボロになってしまって、かわいいのが欲しいなと思ったのがきっかけ。

 

 

素人だけど必ずできるはず、と楽観的に思えたのは、昨年はじめて編んだセーターで成功体験を積んだから。それまでマフラーかレッグウォーマーくらいしか作ったことがなかったけど、ちゃんと本を読んで本の通りに丁寧にやればセーターもカーディガンもできた。編み物ができるなら洋裁だってできるに決まってる。

 

 

エプロンは2着とも、ワンピースのような形。自分用なら前掛けで十分なのだが、ワンピースのタイプを作ってみたかったので挑戦した。まだ不慣れなので母用に作ることにした(笑)

 

1作品目はユザワヤで売っていたノースリーブの型紙で、母が好きなネコのイラスト入りの布を買ってみた。2作目は自分用にしようと思ったけれど、「寒いから袖つきがいい」と母がいうので、図書館で適当な本を借りて袖つきの、これまたワンピース型のを作った。どちらも2,3日で完成。

 

 

ミシン練習用として、どちらも試作のつもりだったが(だからどっちも母用)、我ながら「売り物になるレベルじゃん」と感心した。

 

 

さっそく着て庭仕事をしていた母が、知り合いから「素敵なエプロン! 千円だったらほしいわー!」と褒められたらしい。ふふ、うれしい。でも千円はない。材料費だけで三千円近くしてるんだぞ。 

 

 

実際に作ると分かるが、安く売られている商品は、やっぱり安いだけの理由があるなとしみじみ思う。大量生産でコスト削減できるとはいえ、素材や仕事の質は低い。素材の寿命が短いので、それに合わせて仕事も雑になるのだろう。ある意味でバランスが良い。

安物は表面的に美しく見えたとしても、すぐに色落ちしたりボロが出てくるか、見栄えは良いままでも肌に良くない。市販品で安くてよいものなんてほぼ存在しない。いいものは見た目もよい状態が長持ちする。

これは服だけでなく、ものづくりすべてに言えること。多くの業界で粗悪品が増えたのは、安いものを簡単に買い替えたい消費者が多い現れと取ることもできる。

 

人類に不可能の文字はない

 

そろそろ本題。

未経験の分野を前にすると「自分にはできないし」と思いがち。実際、わたしも自分に服が作れるなんて考えたこともなかった。しかし、この世に存在する仕事で、得意苦手はあれど、絶対に不可能なことはないのである☆

 

 

数学の〇〇予想とかはさすがに厳しいかもしれないけど、少なくとも具体的なものづくりは必ずできる。とくに衣食住に関することならなおのこと。よく考えてみて。人類の起源でメーカー品なんてものはない。工場で大量生産されるようになったのなんてここ100年の話。かつては生きるために狩猟や採取、農耕などをし、草木や毛皮から衣服をつくり、石や土、植物で住居をつくっていた時代があったのだ。それをしなければ生きていけないのだから、逆にいうとそれだけはできるはず。

 

 

古代にミシンはないだろ、と言われたらそうだけど、まあ「服なんて作れるはずがない」と決めつけなくてもいいでしょ? といいたかった。専門学校やデザイナーじゃなくても、だれでもできて当然なのだ。そんな大げさな話をせずとも、祖母の代は普通に自分で縫物編み物をしていた。昔はデパートで手芸コーナーがあるのが当然だったという話も聞いた(聞いたときはびっくりした)。

 

 

残念ながら、いまはお母さんから娘(息子でもいいけど)へ、家庭の中で手芸が口伝される時代ではない。わたしか1つ上の世代で止まってしまった感がある。

しかし! その代わりにネットという便利なシロモノがある。専門サイトに個人ブログにYouTube。おばあちゃんの知恵の100万倍くらいを知ることができるのだ。オフラインで教室に通うのもいいけど、固定化された集団が苦手なわたしの場合は、オンライン上の無限の先生たちに教わる方が向いている。そして、作家たちの出した本も巷にあふれている。

 

 

ウェブだと情報は無料だが、良いものに当たるには自分で探さなければならない。また、コツなどは伝えてくれても、実物のパターンはほぼ有料だし、買うにしても服のパターンは結局データではなく実物を手に入れなければいけない(模造紙サイズなのでプリントアウトできない)。パターンが欲しければ単品か本を買う方が早い。そして、そっちの方が基本的で具体的な実践法を丁寧に教えてくれる。そんなわけで、初期投資として初心者向けの本やパターンなどは一通りちゃんとしたものをお金を出して買った方が良い。右も左も分からないなら、もう少しお金を出して教室に通った方がいい。

 

 

そこで基礎を理解して、言われたことを言われた通りにちゃんとやったら、時間はかかるがそれなりのものができる。本当に単純なことだ。

 

 

文章を読めない人もいるらしい

 

そんなの当たり前と思われるかもしれないが、そうじゃない人もいる。その代表格がうちの母。説明書とか注意書きなど、1から順番を追って書いてある通りに日本語を解釈すればわかるのに、歪曲した独自解釈をして、自滅しているのをよく見かける。

 

機械操作や申し込み方法など、「どうしよう、できない。教えて」とパニクってわたしにと聞いてくるので、「何て書いてある?」と復唱させて、「それ、どういう意味だと思う?」と問うと、書いてある通りのことを返してくるので「それをやってみたら?」というと「あ、できた」なんてことが珍しくない。どういうことやねん。小学校で国語やりなおしてこい! と怒るのがいつもの流れ。ああそうだわ、前世ダンゴムシで今世宇宙人なら仕方ないのか。。

 

 

この考え方が腑に落ちると、できないことはないな、と思えるようになった。とはいえ、道具が必要だったりすれば難しいし、苦手なものは習得も時間がかかるだろう。それでも、たとえわたしの大の苦手の分野(スピーチとかチームスポーツとか)ですら、一歩一歩地道にやっていけば必ずモノにできると思うのだ。

 

 

My「もしもボックス」で乗り切れ

 

たまに考えるのだけど、いまは稼ぐことがエライという価値観が強いが、これがもし「物理ができるヤツがエライ(生きやすい)世の中」だとしたら、子どもから大人まで物理に関心を持つのだろう。子どものころに読んだドラえもんの「もしもボックス」の回で、のび太が「昼寝するヤツがエライ」みたいな世界に変えると、のび太がみんなの尊敬の的になった、というのをよく覚えている。

 

 

バカみたいな話に見えて、意外と荒唐無稽な話でもない。まだほとんどの人が気づいていないけど、いまは「もしも『金がすべての世界だったら』」という”もしもボックス”の世界に生きているだけ。小さい世界では「ゲームができるヤツがエライ」っていうのもある。10年、20年前にゲームといえば子どものやるもので終わっていたのが、eゲームってのができたり実況が流行ったりしている。リアルのもしもボックスは少々タイムラグがあるが、意外と実現しているもんだ。「働かないやつすごい」っていう世界もあるし。

 

 

であれば、自分の中だけで架空のもしもボックスを使って考えてみたらいい。「洋裁ができるやつがエライ」世界ならみんな洋裁をするだろう。だったらわたしもできるはず。弾いたことのない楽器だって、いまから始めてもプロ級になれるだろう。相対性理論だって理解できるようになるはず。時間はかなりかかるだろうけど。

やるかどうかは別として、やろうと思えばなんでもできるはず、という自信はある(笑)

 

 

話しが壮大になったけど、いまの小さな夢は自分の好きなデザインの服を自分で作りたい。布も形もボタンも全部!自分の好きなもので作りたい。今回の母用試作品で自信をつけたので、また作ろうと思います。というか、もう次のパターンを買った。部屋着用モンペ。

 

 

 

渾身の長文記事が一瞬で消えた

さきほど、お菓子づくりブログの方で、久々に渾身の記事を書いたのが一瞬にして消えた。字数にして4,000字越え。普段でもそのくらいならすぐ書けるけど、今回のブログはそれなりに構成を考えて、深い考察も交えた文章だったので、かなりショックが大きい。3時間以上かかったし。

 

 

 

写真を挿入したときに消えてしまったらしく、ctrl + z を押しても変化なし。いやん、ウソやろ、ウソやろー! と連打するけど変化なし。救済システムないんかーい! うおいハテナ! 

いや、こまめな保存さえしておけばよかったのは分かってますよ。わかってるけども! 気を付けたらいいんでしょ! わかってますよ。

 

 

1,500字ほどは生き残っていたのだけど、もう書き直す気にならず、消してしまった。絶望とはこのことです。

 

 

「いつも適当なのに、真面目に書いたのがいけなかったんだろうか。これは、真面目な記事なんて書くなというサインだろうか」なんて都合のいいことを考えてみたりして、自分を慰めた。

 

 

久しぶりに有益な文章が書けたなあと思ったのに。気が向いたらまた書こうかな。気が向いたら。

 

 

 

 

いまさら森博嗣にハマる

今週のお題「最近読んでるもの」

 

 

いくつかの小説のタイトルは聞いたことがあったが、読んだことはなかったので、「すべてがFになる」とか「スカイ・クロラ」の著者というのを知ったのはここ最近のことだった。この2作品すら、小説はおろかドラマもアニメも見たことがない。

 

 

森博嗣を知ったのは、1年ほど前に行きつけのコーヒー屋の本棚にあったのを、ふと手に取ったのがキッカケだった。何の本だか忘れたが、少なくとも小説ではなかった。コーヒー豆が焙煎されるまでの時間、夢中で読んだ。どんな人が書いたのだろうと思って経歴を見ると、工学博士で小説家だという。わたしは理系の文章を好む傾向がある。

 

 

コーヒー屋を出たその足で本屋に向かい、著書を2冊買った。どちらも仕事について書かれた本。わたしは中年にもかかわらず、お前は若者かよ、と突っ込まれそうレベルで、仕事についての悩みが尽きないのでね。。いまも家にあるが、内容は忘れた。また読みなおそう。

 

 

しばらく存在を忘れ、なぜだか今になってふたたびマイブームがきている。はじまりは、吉本ばななのエッセイを読んだことだった。図書館の入荷コーナーで、彼女の本を見つけて読んだらおもしろかった。吉本ばななについても、名前も「キッチン」の存在もよく知っていたが、ただ存在を知っているだけで小説もエッセイも未読、対談本を少し読んだことがある程度だった(こないだはじめて、webに公開している無料の短編を読んだ)。それが良かったので、小説家の書くエッセイが読みたくなり、家にあった森博嗣を思い出して図書館に行ったら、たくさんあったので、借りまくっている。

 

 

すると、森氏のエッセイの中で、よしもとばななと仲が良いということが判明した。自分の興味の赴くままに色んな著者の本を読んでいると、自分が読んでいる人同士のつながりがけっこうある。何も考えずに直観で選んでいるので、「なぜここが?」と不思議なのだが、考え方や興味の方向が似ているのかもしれない、と勝手に解釈して勝手に喜んでいる。

(にしても、森氏が唯一読む小説が吉本ばななっていうのは興味深い)

 

 

1年前に2冊買った時は気づかなかったのだが、森博嗣の思考回路が自分と似すぎていておどろいた。もちろん、森博嗣ほど賢くないし、あそこまで合理主義でもないが。周囲の人間にいっても理解が得られないから、「わたしが間違っているのだろうか……」と自信をなくしてしまうような考え方も、森氏が「自分はこうだ」と言い切っているので光が見えた。ただ、森氏は合理的すぎて、他人からの視点に対して恐れがなさすぎる。臆病者のわたしが実践できるかは、また別の話。森氏のように、わが道をいく人間になりたい。

 

 

いま読んでいる中の1冊

 

 

ちなみに森氏の小説も読もうとしたが無理だった。好き嫌いというよりも、もはや今のわたしは小説をじっくり読むことができない。別のブログでも書いたのだが、ある年齢を超えてから他人の作り上げた世界にどっぷり浸かることができなくなった。

 

 

最近、ミステリーで気になった作品があったのだが、飛ばし飛ばし概要をつかんで、関係のないエピソードはぶっ飛ばして、数百ページを20分ほどで読んだ。それ以外で読むとすれば、10代までにハマった古い小説をパラパラとめくるくらい。それも物語を楽しんでいるのではなく、懐古の情に浸るためだ。

 

 

 

奇遇にも森博嗣も小説を読まないという。前に見たインタビューで、堺雅人も小説は読まないといっていた。きっと青年期までに小説を多読した人間は、一定年齢を超えるとフィクションへの興味が薄れるのではないか。いまのわたしは、他人の描くフィクションより、ノンフィクションの方がおもしろい。

 

 

「小説を書くなら、小説を読まなくなった40歳前後でいいのでは」みたいなことを書いていて、「読めなくていいのか」という安心感と、「じゃあ、いまのわたしが書いてもいいんだ」という謎の自信をもらった。

 

 

森(氏)思考の共感ポイントはたくさんあるのだが、特に印象的だったのは、「自分はこう思うが、それに当てはまらない人がいたからといって、何とも思わない」という意味の”断り”をよく入れていること。

 

 

わたしの周りにもよくいる。自分の意見を言っているだけなのに、批判されたと勘違いして、言い訳をしてきたり、謝罪をしてきたりするのだ。いや、そういうつもりではない、とこっちがいくら言っても、もはや聞いちゃいない。こういうタイプとは建設的な話ができないので苦手だ。

 

 

SNSを見ていても思う。客観的意見を述べているだけなのに、「批判は良くない」という批判をする人も多い。SNSは玉石混合のラクガキと思っているので、いろんな意見があって当然だ。それを批判するのも、”批判”を批判するのも自由だけど、「そういう意見もあるのだな」で流せない人が多いらしい。いちいち反論するのは子どもなのだろう、と想像しているけど実際どうなんだろうか(ネットでは年齢が分からないし、最近の子は文章が上手らしい)。

 

 

正直、わたしも未熟な人間なので、赤の他人の書き込みやブログを見て「それってわたしのことじゃん」とイラっとすることもある。だから文句を言いたい人の気持ちもわかるが、当たり前だけど、わたしのことを言っているのではない。そんなことより、自分が反応したことばは、自分が気にしていることなんだな、という気づきをもらったことに感謝する。何度見ても反応してしまうなら、目に触れないようにする。ケンカを吹っ掛けるほど体力はない。

 

 

色んな著書で森氏が断りを入れているところを見ると、多くの人からクレームが届くのだろう。有名人は大変だ。

 

 

森氏の情報を知らなかったときは、同じくらいの世代なのかと思っていたが、父親ほど年齢が離れていたので驚いた。わたしがなぜ同じくらいだと思ったのかというと、自分と思考回路が似ているから、というただそれだけの理由かもしれない。あとは年寄りに多い、断定的な主張がないところだろうか。謙虚というよりは、ニュートラルな姿勢を感じる。近影とやらの写真は暗くてよく分からないが、きっと実年齢より若く見えるだろう。

 

 

特定の人物にハマるとすべてを知りたくなる。今回の森博嗣はエッセイをたくさん出しているので、ありがたい。読めば読むほど共感度が増して「そうそう、これよね」となる。これは恋だろうか? ある人によると、「恋というのは、”その人と一緒にいる自分を好き”という状態」だとか。だったら恋だ。

 

 

ひとつ気になるのが「mori magazine(モリ・マガジン)」の質問コーナー。この本は「森氏が編集長になって雑誌を作ってみた」みたいなコンセプト。2017~19年にかけて年1冊ずつ、vol.3まで出ているところを見ると、人気らしい。

 

コーナーは、事前に募集した質問をインタビュワーと会話しながら回答していく形式。重いものから軽いものまでさまざまなのだが、森氏は「わかりません」とか「いいんじゃないですか」とか、9割以上の質問について1~3行ほどでバッサバッサ切り捨てていた。

 

これはどういう雰囲気で行われていたのだろう? 冷めた森氏に対してインタビュワーは明るい様子なので、気心知れた関係性なのだろうが、それにしてもシュールすぎるだろ、と突っ込まずにはいられなかった。せめて(笑)でもあれば、まだ想像できるが、それもない。「(笑)は入れない」というルール設定をしたに違いない。

 

 

vol.1では1~3行ほどで終わっていた回答だったが、vol.2では行数が増えていたので、読者のクレームがあったのかもしれない。わたしとしては、このコーナーのおかげで森氏によりハマった。

今度、vol3も見てみよう。図書館で読むと思うけど、すみません(森氏は図書館に小説が並ぶことをよしとしていない)。また別の機会に何か買います。

 

 

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この記事にタグをつけようと「森博嗣」と入力したところ、「森博嗣教」「森博嗣信者」などと出てきた。そこまで熱狂的なファンがいるのか。