おやつく後記

日常のことなど思いつき

素人でもヘタクソでもやりたいことをやる

飽きたら初挑戦できるものを探す。これに限る。

 

 

 

 

 

今日はすでに出来上がっている袖なしエプロンに袖をつけてみた。

 

 

洋裁の練習がてら、エプロン袖なし、袖つき各一着を作ってを母にプレゼントしたところ、袖なしだと寒いので冬には着ないという。「エプロンは服を汚さないようにするものだから、下に着こんだら袖なしでもいいでしょ」といったのだが、頑なに着ようとしない。この石頭め。だが仕方ない。ならば、と思い立ち、袖なしに着脱可能な袖をつけることにした。

 

 

何もないところから袖を付け足すのは初心者には難しい。でもやると決めたらやる。YouTubeと別のエプロンの型紙を参考に、見様見真似で線を引いてみた。着脱方法はファスナーで、袖の取り外しができるブルゾンみたいな仕様にすることに。袖はバイアステープを付けた方がいいだろうかと思い、本当は持っているのだが好奇心に任せて今回は自作してみた。

 

 

すでに完成したエプロンの袖口のバイアステープをほどき、ファスナーをつけ、袖口も作ってつけてみたら、まあまあうまくできた。初めてにしては上出来。

 

 

できたよ、と母に見せると「ここまでやったの!? すごいというか、この熱量を他に活かせないものかねえ」とつまらないことを言ってきた。

 

<あなたが知らないだけで、わたしは何するときもこの熱量なんです。というか、服作りに情熱燃やすことの何が悪いのさ>と肚の中で毒づいた。<そんなことを頑張るなら、金になる仕事に向けろ>と言いたいに違いない母には届かないので、もう反論するのは諦めている。

 

 

もともと袖なしが前提のエプロンだったので、袖を付けると胸まわりが少し動かしにくい。もし次に作るとしたら胸から肩にかけて余裕を持たせないと、不自然な形になるのだな。なるほど、人体というのはアシンメトリーなんだよな。などと考えながら鏡の前で身体を動かしてると「なにやってんの」と母が笑っていた。笑わば笑え。

 

 

せっかく作った袖だが、つけると身体が動かしにくいので母は着ないかもしれない。いや、気を遣って着るかもしれない。しかしわたしは自分のやりたかったことができて、思っていた理想にそこそこ近かったので大満足したので、着ないならそれでもいい。というか、わたしがもらったら絶対に着ない(笑)動きにくいし、袖をつけたらデザインもイマイチだもの。

 

 

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誰にも頼まれてないし、何の得にもならない。母が着なければ労力も材料費もパーになる。でも、たったひとつ、そして最大の理由はわたしがやりたかったからやった。

 

 

今回の挑戦は初心者にしては難易度が高かったんじゃないかと思う。でも、ヘタクソでもできた。それがうれしい。服を作ることができる、ということの確信がまた深まった。

 

 

洋裁もきっと料理と同じだ。下手でも初めてでも、とりあえず手を動かせば作ることはできる。最初は人になんて出せないレベルが、目玉焼きくらいはできるようになり、そのうちオムレツができるようになり、いつかオムライスや天津飯が作れるようになる。

 

 

だったら洋裁だって、最初は巾着袋だったのがエプロンになり、パンツやスカート、シャツもいつか作れるはず。

 

 

わたしはフランス料理や高級中華・懐石料理を作らない。本気でやりたければできる気がするけど、食材費や手間を考えると自分で作ってまで食べたいと思わないから。かわりに、手ごろな値段でおいしい食材を探し、手塩にかけて育てた庭の無農薬野菜を使うことはある。職人の道具を使わないけれど、持っている包丁をこまめに研いだり道具を大事にし、作業は丁寧にする。有名店の味でなくとも、自分の料理にいつも満足している。

 

 

それと同じように、わたしはハイブランドの服を作りたいとは思わないだろう。服の形はベーシックで質の良いトラッドが好き。「あの生地を使ってこういう形のものが欲しい」、と思ったらすぐに図面が浮かんで作れるようになりたい。きっと、お金があったとしても、自分の手で何かを作りたい。高い服を買うお金があるのなら、その分を上質な材料費に回してやる。

 

 

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友達に趣味の話をすると「器用だね」など言われることが多いが、まったくそんなことはない。何をやってもヘタクソだけど、何かにはまったらのめり込むだけのこと(そのかわり、飽きっぽい)。

 

 

7歳の時、生まれて初めて作ったクッキーは、しっかり混ぜていなかったので部分的に苦くて、家族からさんざんな言われようだった。悔しくていまだに覚えている。

分量を間違えて死ぬほど甘いケーキを作って、一口食べてしばらくして「おいしい」といった父の顔が引きつっていたことも覚えてる。

それでも楽しいから作り続けていたら上達して、いまはみんなおいしいと言ってくれる(すべて本音とも思わないけど)。

 

 

バカにされたり笑われたり呆れられたり、マイナスに見られることだらけの中で、誰かにとって、ほんのひとつかふたつ、器用に見えるだけなのだ。

 

 

マイナスに見られているのを感じると、恥ずかしさとか悔しさとかもあるけれど、他人に見せるためにやってないので、しばらくすると忘れる。必ず次は少しでもいいものを作る自信がある。今日の母のように、バカにしてきた相手に、<何も挑戦しないあなたよりずっと楽しいけどね>、って心の中で舌を出したりね。

 

 

最近すぐに人生飽たなあ、とかすぐ思ってしまうのだけど、探そうと思えばやりたいことは見つかるもんだ。今日やりきったので、明日、また何をしようか悩むかもしれないけれど、明日は明日の風が吹く、とな。

 

 

眠くてなにを書いているのか分からなくなってきた。でもいいやアップしてしまおう。