おやつく後記

日常のことなど思いつき

抽象度と夕飯メニューとセンスと

質問です。

 

豆乳ごま鍋とシチュー

五目そばと八宝菜

 

それぞれ、同じだと思う? 違うものだと思う?

 



 

わたしが豆乳ごま鍋を作った次の日に、母がシチューを作った。

 

わたしが五目そばを作った次の日に、母は八宝菜を作った。

 

 

知らない人のために説明すると、豆乳ごま鍋というのは、豆乳と練りごまの入ったコクのある出汁をベースにした鍋。シチューは牛乳とバターでコクを出しているものなので(基本はルーだけど)、和か洋か、具材の違いしかない。

 

 

わたしにとって豆乳ごま鍋はトロミのついていない和風シチューだし、その日の五目そばの具材は翌日の八宝菜とまったく同じで、味付けもほぼ一緒。麺があるかないか、スープの量とトロミくらいしか違いがなかった(一般で知られる五目そばとは違うかもしれないが、今回は八宝菜とほぼ同じだった)。

 

 

母に「前日の夕食から連想して作ったでしょ?」というと、「違う」という。ならば、無意識で連想したに違いない。そうでなければ、こんな似たり寄ったりの料理をつくるはずがない。しかし、それも「違う」らしい。無意識なのだから、違うかどうかもわかってないと思うのだが。

 

 

前日の残り食材を流用したかったとか、豆乳ごま鍋を見ていたらどうしてもシチューが食べたくなった、というならまだわかる。でもそうじゃないなら、もっと別のメニューがあっただろうに。と言っても、母は偶然だと頑なに言い張った。わたしが詰めるので意地になっていた可能性もある。

 

 

母に言わせると豆乳ごま鍋とシチュー、そして五目そばと八宝菜はまったく別の料理なのだ。だったら、豆乳ごま鍋の次の日がシチューなのは偶然か? 五目そばの翌日が八宝菜なのは偶然か? わたしからすると、それこそ「違う。偶然ではない」。これは毎日のように観察しているうちの母だからこそ言い切れる話で、他の人が同じことをしてもここまで言い切ることはない。

 

 

母とわたしの認識の違いは、そのまま抽象度の違いといえる。

 

 

わたしにとって、パスタと焼うどんと焼きそばは「麺×”焼きもの”」というジャンルで一緒。焼き魚と焼き鳥はシンプルな塩味なら「動物性たんぱく質×塩味×焼き物」という意味で同じ。タルト(生地)とクッキーも場合によっては「バターと砂糖と卵で作った焼き菓子」という意味で同じ。

 

 

抽象度のレベルはさまざまで、私の中でも基準はない。ただ、料理好きのわたしとしては、どうしても食べたいのでないなら、焼きうどんの次の日にパスタ、焼き魚の次の日に焼き鳥を作らない。料理には焼き物、蒸し物、揚げ物、生という調理法が合って、同じ焼き物でも組み合わせや味付け次第で、少しでも距離を離すことができる。

 

 

おそらく、母は焼きそばと焼うどんは同系列と判断したとしても、パスタは別物。焼き鳥と焼魚は別物。タルトとクッキーも別物(わたしがお菓子作りが趣味だからそう思うだけで、母と同じく別物と捉える人の方が多いかもしれない)。

 

そばとうどんは、麺の違いのみだし、うどん屋にそばがあったり、その逆もあるので、同列と認識しやすいだろう。

 

 

もちろん、それがダメというわけではない。連想して似たようなものを作ってもいいし、無意識でもいい。ただ、センスがないと思うし、無意識って怖いなと思っただけで。

 

 

何にしろ、作ってもらっているなら文句を言うべきではないけどね。

 

 

と思ったら、なんと今夜の夕飯は和風シチューになった。思考は現実化する……(もっと夢のある現実こい)