おやつく後記

日常のことなど思いつき

些細な直観と行動の積み重ねを大事にする

先日、我ながらいい判断をした、と思ったことがあった。そのエピソードだけ書くつもりだったけど、人生観まで発展した。

 

 

※この記事は約8分で読めます。長。

 

 

おばあちゃんにあげた袋

 

斜め向かいに住むおばあちゃんが庭の花をプレゼントしてくれた。毎日ように花の手入れをしているおばあちゃんの家の植え込みは、いつも美しく整えられている。いま満開の花がもうすぐしたら枯れてしまうのでキレイなうちにどうぞ、とおすそ分けしてくれた。

 

 

わたしはそれほどでもないのだが、うちの母が人づきあいが上手で、おばあちゃんとしょっちゅうおしゃべりをしている。その日は母がいなかったため、わたしが受け取ってお礼を言った。

 

後日、別の方からおいしいイチゴをもらったので、「おばあちゃんにプレゼントするわ」と母。

 

 

そこで、渡し方についてちょっと議論になった。

 

 

母がイチゴのパックがギリギリ入る紙袋に入れて持っていこうとしたので「それは良くない」と止めた。

 

 

おばあちゃんの家はうちの斜め前で目と鼻の先、おばあちゃんの家も門から玄関まで数歩程度なので、ピンポンを押して出てきてもらって帰るだけだ。

それだけ見ると、母の判断は正しい。

 

 

しかし、ほぼ遠目で見ているだけのわたしでも、おばあちゃんの足腰が弱いことは明白だった。花の手入れに余念がなくけっこうな時間をかけて作業しているが、腰が曲がっていて基本的に動作はゆっくり。お風呂はデイサービスに行っている、という情報も知っている。

 

 

だとしたら、イチゴのパックがギリギリ入る紙袋は不適切だろう。少なくとも片手はふさがるし、もしかしたらおばあちゃんの場合は両手になるかもしれない。門で受け取って玄関に入るだけでも、段差があったりして危険は潜んでいる。一度でもつまづいたら大けがする可能性もある。

 

 

少なくとも手提げ、できれば十分な長さがあって腕にかけられる方が、両手が空くのでいいだろう。それで探したのだが、ピッタリなサイズのものがない。どうしても見つからないので、イチゴを入れるには少し大きすぎる袋にした。A4ノートがギリギリ入るくらいの幅でマチつきのしっかりしたケーキ屋の袋。

 

 

母は変にケチなところがある上、”袋”ってやつを異常に大事にしているので(笑)、わたしが取った袋を見て「そんな大きなのいらないでしょ。もったいない」と渋った。サイズもそれなり、強度もあってイラストもかわいいので、もうちょっと別の機会にとっておきたかったのだろう。

 

 

しかしこっちも譲らず、「あの人に紙袋なんてダメ」と断固拒否。ついでにいうと、母が最初に入れようとしたのがドラッグストアの紙袋というのも微妙だった。イチゴを入れるのにドラッグストアの紙袋なんて、センス悪くない? まあ気にしない人は気にしないだろうが、自分だったらイヤだ。

 

 

母もけっこう粘ったが、わたしの粘り勝ち。しぶしぶケーキ屋の袋に入れていった。

 

 

すると帰ってきた母は驚きの報告をしてきた。

 

 

「おばあちゃんが、えらく袋を気に入った」というのだ。デイサービスのお風呂に行く際、着替えを入れるちょうど良い袋がなかったのだそうで、イチゴを入れた袋がおばあちゃんにドンピシャだったらしい。

 

 

イチゴを渡した第一声が「この袋、もらえるの?」だったという。最初、母はおばあちゃんの言葉の意図が分からず、「返してもらえるなら返してほしい」と、とっさに思ったらしいが、すぐあとにおばあちゃんが欲しがっているのを知って「どうぞどうぞ」と快く返事をしたとのこと。(…いや、「袋返して」はないだろうに。これが母)

 

 

おばあちゃんはとっても喜んでくれたので、よかったねという話でした。

 

 

イチゴについては「毎日ヨーグルトに入れて食べている」とのことで、喜んではいるだろうけれど、おばあちゃんのテンションを見るに、袋の方が価値があったもよう。「高級なイチゴだったんだけど」と母はぼやいていた。まあ、イチゴがあるから袋も差し上げたわけなので、意味はあった、ということにしておこう。

 

 

いやほんと、紙袋にしなくてよかったよ。おばあちゃんのケガを防ぐことができ、しかもめちゃくちゃ喜んでくれるなんて。ハッピーハッピー。これがRPGなら好感度ポイントが10くらい増えてる。

 

 

不快感をスルーしちゃだめ

 

一方で感じたことは、こんな袋なんて探せば必ず見つかるはずなのに、今までおばあちゃんはずっと不便を我慢していたのだな、ということ。

 

うちは徒歩圏内に100円均一やらスーパーやら、いくらでも店はある。おばあちゃんの希望にバッチリ合う袋を探すには少し時間を要するかもしれないが、絶対見つかるはず。おばあちゃんは足腰が弱いので、探し回るのは難しいかもしれないが、お子さんも同居している。ちょっとした買い物ひとつで日々が少し楽になるだろうに、ご本人もお子さんもいままで対処していなかったということだ。

 

 

きっとそこまで行動するほどでもないし、些細な我慢だからスルーしていたのだろう。でもそれは同時に、些細な努力で簡単に解決する問題でもある。持ちやすい袋をゲットするだけで、ケガの確率もおばあちゃんの精神的ストレスもグッと減るはず。たかが袋ひとつでも、少しこだわってみるだけで生活が少し楽になる。

 

 

小さな快感を追求する

 

わたしがこういうことを言うと「考えすぎ」「大げさ」とか言われるのだが、絶対に大げさではないという自信がある。

 

 

人生、やってもいいしやらなくてもいいことなんて無限にある。その中で、自分の負担にならない程度にちょっと考えて行動したら、その後の生活が少し楽になる。いままでストレスだった部分に空間ができると余裕が生まれ、別のことにリソースが割ける。そこで、今まで気づかなかった小さな発見がある。それを繰り返すうちに、振り返れば遠くまで行っているもんだ。

 

 

そういうことをして、具体的にどんな良いことがあったの? と聞かれると特定するのは難しい。その小さな行動が直接的に何かわかりやすい結果に結びつくのではなく、一見関係のないことばかり。かなりザックリした話だが、わたしの人生はラッキーなことが多い(ザックリしすぎだが、説明が面倒なので省略)。ただ、ラッキーな出来事と日頃やってる些細な行動について、直接的な因果関係は説明できない。

 

 

たとえば大リーグの大谷が球場に落ちているゴミを拾うような感じだろうか。論理的な説明はできなくとも、その行動と成績は無関係ではない、と多くの人は感覚的に理解してるだろう。

 

 

母にコンサルする

 

こういう考えの元、さりげなく母をコンサルして誘導している。

 

習い事

 

たとえば習い事。母は昔から続く運動サークルには入っているが、その他の習い事というのがそもそも選択肢になかった。しかし昔から文化芸術には多少興味がある。この際、習い事をしてみたら? と言ってみたのだ。

 

 

母は「新しく習い事なんてめんどくさいし大変」というイメージがこびりついているので、最初はかなり後ろ向きだった。なら、頻度が少ないところを探せばいいし、一度見学に行ってから決めたらいい、とハードルを下げる提案をしたら、「なるほど」と納得。そこで見つけた場所が気に入ったらしく、もうすぐ1年になろうとしている。

 

旅行

 

また、隣県に住む伯母(母の姉)が趣味のスポーツの試合に参加するため、しょっちゅう一人遠征をしているので、母に「ついていけば?」と提案したこともある。

 

この姉妹は仲が良いし、母は時間的余裕も十分にある。放っておくと単調な日々を過ごすだけなので、旅行がてら応援に行ったら楽しめるんじゃないかと思った。

すると、「そんなこと、考えたこともなかった」と驚いていたが、しばらくすると「行くことにする!」と早速伯母に電話していた。伯母もそのアイデアが気に入ったようで、ふたりで楽しんでいた。

 

わたしからすると、なぜそんな簡単なことを思いつかないのか不思議なのだが、多くの人はそうなのかもしれない。

 

 

もし母に時間的余裕とか金銭的余裕がないというなら、あるいは伯母が一人を好むタイプだったとしたら、こんな提案はしない。でも、十分実現できるだけの条件がそろっていて、なおかつ楽しめるのならやるに越したことはない。

 

 

”明日”は保証されていない

 

こういったことを思いつかない理由はなんだろう、と考えてみて、「明日も明後日も、ずっと今日と変わらない日々が続く」という前提で生きているからではないかと思った。歳をとると変化を嫌うのは、まあ分からないでもない。でも今より少しでも楽しめる工夫は、その人なりの方法で見つかるはず。「楽しむ」まで行けないなら「楽をする」でもいい。

 

 

生きる目的が、ただ「生きながらえる」だったら単調で変わらない日々でもいいのかもしれないが、人生を楽しみたいなら、昨日と違う自分を発見した方がいい。

ちょうど最近、母の知り合いで最近まで元気だった人が突然亡くなる、ということが立てづづけに起こったので、改めて生きるということについて多少考える機会をいただいた。これも母のフットワークが軽くなった一因かもしれない。

 

 

わたしはといえば、もともと生き死にということについて子どものころからよく考えていて、「生きていることが奇跡。死がいつ来るかなんてわかったもんじゃない」のが前提だった。一歩外に出れば、いくら気を付けていても事故にあう可能性はあるし、家に引きこもっていても災害が起こるかもしれない。極端な例ではあるが別に悲観している訳ではなく、生きていると同時に死の可能性もあるってことだ。若いとか気を付けているからといって明日も明後日も生が保証されているなんてことはない。

 

 

だから、何かに誘われたときに「これで行った先で死んでも後悔しないか」というのを考える。といっても、そこまで究極の選択をしている訳ではなく、本心では明らかに行きたくないのに良く思われたいがために嫌々行こうとしている自分がいることに気づく、くらいのスタンス。結局、嫌々でも行くこともあるが、それは自分が選んだので責任を持って、可能な限り良い時間を過ごす努力をする。

 

 

毎回、くだらないことで人生の選択ゴッコをしており、バカげているとは承知だが、自分を振り返るツールとしてはオススメ。無意識で反射的に選択していた自分に気づくだけでも価値がある。

 

 

人生24時間1分1秒に意味を持たせるというほど尖ることはできないし、しょうもない時間を過ごすこともあるが、出来る限り自分の時間に意味を持たせよう、と意識すれば多少変わってくると思う。

 

 

実際のところ、しょうもないSNSサーフィンに時間を費やして人生無駄にしていることも多いのだが、「この時間がなければ、しょうもないという事実に気づけなかったのだからOKなのよ」ということにしている。自分に甘い? いいんです。

 

 

些細な不快をつぶし、些細な快感を追求する。

それだけで人生はかなり豊かになる。