おやつく後記

日常のことなど

初挑戦の手仕事と今後やりたい手仕事

2024年1月1日から自分の中のフェーズが変わった気がする。といっても大きな出来事があったわけじゃない。今まで興味のあったことへの関心が薄れたり、バージョンアップしたり、違う方に広がったり、という微細な変化だ。

 

 

たとえばインスタ。手仕事の記録用に始めたが、最近はマンネリ化していた。どちらかというと、わたしは画像を残すことよりも、その時にやったこと・感じたことを文章に残したいタイプ。インスタは文章入力には若干不向きな仕様である上に、わたしのスマホはバグりやすかった。

 

時間をかけて作ったものが一瞬で飛ぶ、みたいなのが1度や2度ならず。「あーもう、めんどくさいから今日は止めっ!」というのが何日も続いて、今に至る。

 

 

しかし手仕事は続けているどころか、パワーアップしている。ということで、最近やったことと今後やりたいこと。

 

 

 

 

ここ最近、初挑戦したこと

 

服飾編

 

洋裁

 

過去記事をちょっと確認してみたところ12月にエプロンのことを書いていた。

t-syun.hatenablog.com

 

このエプロンを作った後に、叔母用と自分用をさらに合計3着つくった。デザインはすべて違うものにし、1つは古いエプロンから型を起こし、自分でデザイン修正した。さらに母の袖なしエプロンにファスナーで着脱できる袖をつくった。参考にしたのは袖の着脱ができるブルゾン。薄い生地でつくったエプロンにファスナーをつけるとゴツくなってしまい「戦闘服か宇宙服かよ」という違和感はあったが、そういうのも作ってみてはじめてわかるもの。わたしだったら絶対に着たくないが、母のだからいいのである☆(本人は見た目より温かさ重視なので気に入っているらしい)

 

※見直したら袖付けたしエプロンの話は前の記事に書いていた。

 

 

次に、自宅用のワイドパンツ。前にコピーメイドで複雑な形状のワイドパンツを作ったのだが、あれは初めてやるには難易度が高すぎた。ちゃんと本になっているレシピで作るとめちゃくちゃ簡単。ファスナーではなくゴムだったのもある。かわいい布で作ると愛着もマシマシで良い。

 

 

編み物

 

続いて毛糸のパンツを2着、あと1着は作っている途中。毛糸のパンツといえばババくさいイメージだったが、オシャレな本を発見。部屋着として履くとかわいいのでアリだなと思った。まず最初に、母用として試し編みしてみた。初めて作るものはすべて母用(笑)、ただし、うまくいったら自分用にする。

 

 

スタイリッシュな(?)毛糸のパンツの本

 

 

初回は毛糸を買うのがおっくうだったので、残り物を駆使したら毛糸が太すぎてモッコモコになってしまった。小さい子が履いたらかわいいだろうが、大人はどうだろう。上からスカートをはいたとしても膨らみそうなので、家用として上からダボダボのパンツをはくか、下にタイツを履いて1枚で過ごすくらいしか使えそうにない――と思ったのだが、母は上にデニムを履いて普通に外に出かけていた。強いなオイ。

 

 

あと、これまた自宅用に締め付けの緩いヘアターバンが欲しかったので編んでみた。ゆるゆるなのが気に入っているが、1か月も使うとズリ落ちそう。毛糸なので洗ったらまたいい感じになるかな。

 

 

料理編

 

まずはクロワッサンづくりバターロールづくり。こちらは過去に1回は作ったことはあるが、適当にやったのでヘタクソだった。それを今回は真剣にやってみた。天然酵母で作ろうとすると、寝かせるのにやたら時間がかかる。が、作業自体は難しいことはなく、書いている通りにすればうまくできる。クロワッサンはバターの溶けだし量が多いので改善の余地アリ。

 

 

つづいて酵母ビスケット。これまた過去に作ったことはあるが、真剣モードで再挑戦。したらびっくりするくらいおいしいのなんのっつって。食感や味のイメージはナビスコのリッツ。あれがもっと風味豊かになったバージョンが酵母ビスケットなのだ。酵母から引き出された旨味がすごい。チョコをかけてみたりもしたが、何もナシでも十分すぎるほどおいしい。お菓子屋さんをするならこれは定番商品にしたい。

 

 

初めてのたくあんづくり。畑をしている人から恐ろしくデカイ大根をもらってラスト4分の1ほど余っていたので、ネットで調べて作ってみた。昨年末に作った「柚子チェッロ」に漬け込んだ皮をみじん切りにして冷凍していたのと、叔母がくれた庭木のみかんジャムも隠し味に。本格派より少し手順を省略したレシピだが、自分で作ったことはないので出来上がりが楽しみ。

 

 

初めての焼き豚づくり。

栗原はるみの雑誌を読んでいたらあったので、興味をもった。今までに作ったことがあるようでなかったのだ。近所の肉屋でおいしい焼き豚を作っているので、「店で買うもの」と思い込んでいたフシもある。オーブンよりもグリルだろ! ということで魚焼きグリルで作ったらコゲた。でもおいしかった。今度は火加減気を付けます。

 

 

相変わらずカヌレは忘れたころに思い出しては作っている。こないだ、お菓子ブログの方に「”牛乳の沸騰不要”論」を書いたら、閲覧数が増えてビビっている。

適当な検証で勢いで書いてしまったので、間違ってるかもしれないんだけど。非公開に戻そうか迷ったけれど、自分がやったことと感じたことを書いただけなので、あとは読んだ人に判断を任せればいいか、と公開したままにしている。

先日、本屋に行った際に、少しだけ関係書籍を探してみたけれど核心をつく内容に出会っていない。また検証して違う結論が出たら、「すみません、違ってました」って謝ろうと思う。

 

 

その他

 

次にコーヒーかすの再利用。コーヒー愛飲者なので毎日コーヒーかすが出るのをちゃんと使ってみたくなった。まずは冷蔵庫内やトイレ、玄関などに置き、次に靴の消臭&乾燥のためのシューキーパー(? 名前が分からない)を作った。古布を縦長の袋状にして、そこに渇いたコーヒーかすを詰める。布はそのままだとコーヒーの油が染みるかな? と心配だったので不織布の接着芯をはってみた。効果があるのかは謎だけど、今のところ染み出てこないので、正解だったのかな?

 

 

今後試したいこと

 

化粧品編

 

まずは化粧品づくり

今すでに簡単なボタニカル化粧水は作っている。果実酒づくりで余ったホワイトリカーに庭のローズマリーとかミント、ヨモギ、いただきものの柑橘の種などを漬け込んだものを、水道水で割ってニガリを入れている。自然の植物の香りが気に入っている。

これをもう少しパワーアップさせて、ジェルとかマッサージクリームを作れないかなと画策している。シルク化粧品に興味があるので繭から抽出してみるのもやってみたい。

 

 

 

DIY

 

この年末は大掃除をかなり頑張った。この家が建ってから一度も触ったことないだろう、というところまで徹底的にやった。やりすぎて年内に終わらず、まだ続けなきゃと思っているのだが、寒いのでもう少し温かくなってから…。

 

ということをきっかけに、壁紙の張替か、漆喰塗りなどに挑戦したくなった。業者に頼んでもいいのだが、「そうなると1か月ほど家を空けて一気に全部やっちゃった方がいい」と言われてしまい、「絶対ヤダ!」と思った。そこまで拒むことでもないのだろうが、なんか嫌。とにかく嫌。適当な他人に触られるくらいなら自分でやりたい。

 

 

料理編ふたたび

 

先日、散歩していたら「瓦そばが食べたい」とふと思った。かなり謎ではあるが、どこかで読んだ雑誌にでも載ってたのかもしれない。あとはドラマ「逃げ恥」に登場したときの印象も強い(話の流れと全然関係ないので、違和感ありすぎて)。レシピを調べると、さほど好みの味でもなさそうだが、一度は食べてもいいんじゃないか。そう思って、カレンダーに「瓦そばが食べたい」とメモしておいた。1月に書いたら終わると同時に捨てられたので、2月にも同じ言葉を書いた。今年中には食べると思う。

 

 

番外編

 

食品衛生責任者の資格を取ろうかと考えている。お菓子屋さんをやりたいようでやりたくないのだが、資格は期限がないみたいだし、いつか何か役に立つかもしれない。ついでにお菓子を人にプレゼントするときに、自分のお菓子ブランドのロゴでも作ろうかと思っている。いわばゴッコ遊びみたいなもの。この先に何かあるかもしれないし、何もないかもしれない。

 

 

 

 

 

家は主の胎内である

うちの場合は母親だ。

わたしは実家に戻って母と二人暮らしなのだが、自分の家という気がしない。いつまでたっても人の家を間借りしているようで、少し居心地が悪い。戻ってきてしばらくは気にしていなかったが、当時は仕事で忙しくてほとんど家にいなかったからだろう。最近、家にいる時間が増えたおかげで、違和感に気づいた。

 

 

もちろん、子どもの頃は何も思わなかった。大学生以降、長いこと家を出て1人ぐらしなどをして、久しぶりに戻ってきたらまったく別の場所になっていた。大人になって自己が確立されたからだろう。家を出てからのわたしは、いつも所有しているモノが少なく、久しぶりの実家はモノであふれていた。しかし、思い返せば小さい頃から実家はそうだった。

 

 

実家に帰った直後、少しでも自分の居場所を確保するために断捨離と掃除に励んだ。おそらく、家の半分くらいのモノを処分したのではないかと思う。すると母が痩せた(笑)知り合いに「ちゃんと食べてる?」と心配されていたようだが、わたしよりよほど食べるしよく寝るしよくしゃべる。つまり健康そのもの。絶対に断捨離の効果だ。

 

 

家が母親の胎内だと思った理由について細かく書いていたのだが、ただの悪口になったのでいったん消した。オブラートに包んで書き直そう。

 

 

 

実家のモノの量や配置、掃除の具合、すべてが母そのものなのだ。

 

 

量が多すぎる、あるべき場所にあるべき物がない、見える部分だけ掃除をしている”風”、とか。……やっぱり悪口になってしまった。

 

 

これでもかなり改善されたのだ。わたしが帰ってきてすぐは、意地悪な姑のごとく、ネチネチと指摘していたのだが、ウザがられるだけで良い効果がないのを知って、小言は止めた。代わりに、自分の部屋と水回りだけはピカピカにするようにしていたら、母も少しずつ真似をするようになり、数年前よりずいぶんきれい好きになった。

 

 

(誰かに文句を言いたくなったら、言うのではなくやってほしいことを自ら黙々と実践しよう。その方が平和だしずっと早い)

 

 

”自分の部屋と水回りだけ”と書いたが、もちろん、自分さえ良ければいい、というイケズなことをするつもりはなく、最初はすべての部屋を掃除したのだが、間もなく全く意味がないことを悟った。

 

 

わたしがモノを減らせば、空いたスペースに母がモノを詰めてしまうのだ。空間を無駄に使っていたので棚を作ると、前よりモノが入るようになった分、余計に増えてしまう。

 

 

わたしがいくら掃除をしても、わたしより母が使う場所はたちまち汚れてしまう。なぜ自分が使ってもない場所を一生懸命掃除して、しかもすぐに元通りにされなきゃいけないのだ、と思うとバカらしくなってしまった。

 

 

結局、そこを使う人間がきれいにしない限り、何の効果もない。正確にいうと、本人が手を動かさなくても、大前提として”気持ち”があればいい。たとえば業者に頼んで掃除してもらうならそれもあり。依頼する本人が掃除をしようと考えたからお金を払って人にやってもらうわけで、掃除の意味としては自分でやるのと同等の価値がある。

 

 

水回が不潔なのだけは許せないので、誰が使おうともわたしが掃除をすることにしたが、それ以外は諦めた。だからわたしの部屋と水回り以外は母の管轄ということだ。

 

 

話を元に戻す。家は母の胎内であり、つまり母の性格そのものだった。

 

モノが多い → 雑念が多すぎる

あるべき場所にあるべき物がない → 思考回路がぐちゃぐちゃ

見える場所だけ掃除をしている”風” → 表面的には愛想がいいが……(以下略)

 

ほかにもあるが、この辺でやめておこう。

 

 

そんなカオスな母の胎内の片隅で、ひっそりと小さく生きている(すみっコぐらしを初めてみたとき、思わず「わたしみたい」とつぶやいて、友達に引かれた。本当にそう思ったのだ)。そんな唯一の自室さえ完璧にできない。とっくの昔に家を出た家族のモノが押し入れの9割を占めているからだ。いくら家族とはいえ、住人であるわたしの部屋に他人のモノが入っているのは本当に腹立たしいのだが、あくまで母の家なので、強く言えないのがもどかしい(言ってもいいのかもしれないが、そういう気分になれない)。

 

 

でも、ある意味ではこの居心地の悪さは正しい。家の主は1人で十分だからだ。

 

 

たとえば夫婦や家族だと、2人以上で家を共有することになるが、そこでの主は妻や母であることが多い。夫が大黒柱だとか、亭主関白だとしても、家を守るのは主婦だ(逆でもいい)。あるいは、妻がいても家の管理も夫がしているのなら、家は夫の胎内かもしれない。とにかく、家という建物を支配している人の胎内になっているはず。もし、主の方針で各自の部屋は自分の好きに使うべき、というなら、主の思う通りになっているといえる。

 

 

うちのように母娘で住んでいても、娘が母に全権を委任しているのであれば、気持ち悪さはないかもしれない。しかしそれは、母の庇護の中でいることに違和感がないということでもあり、子どものままなのだ。

 

 

逆に娘が家の主に成り代わってもいいのだと思う。親も歳をとるとそっちの方が楽かもしれない。ただ、うちの場合はわたしがそれをやりたくない。母は、義務感が薄れると動かなくなるタイプ。放っておいても父が亡くなってから手持無沙汰に見える。父ほどではなくとも、まだわたしという存在がいるから動いているが、わたしが主の座を奪うととたちまち老いる気がする。

 

わたしが家を出た方がいいのかなと考えたこともあるのだが、悩んだ結果、まだしばらく動かないことに決めた。おかげでこういう違和感と常に戦っている。

 

 

ちなみに、良好な関係を築いた家族であれば、家はさほどキレイでなくとも居心地が良いだろう。毎日、胎内から出て胎内に帰ってくる――というとなんかエロい響きを含んでいるが、家の場合はそういう意味でもなく、とにかく安心感があるはず。

 

 

もし夫にとって居心地の悪い胎内なら、別の安心できる場所を求めるだろう。基本が安心できる場所であれば、一時的に気の迷いがあっても帰ってくるだろう。子どもは、大人になれば居心地が悪くなるのは当然であり健全なこと。

 

 

誰かのブログで「社会人の男で実家暮らしはダメ」というのを見たことがあるのだが、日々、母の場所に戻ってくる限り、子どものままで自立できないということだ。生まれる前は実際に母の胎内で育ち、時が満ちると物理的に母の胎内から出てくる。次は疑似的な母の胎内である”家”で守られながら育つ。そして大人になったら、自分の意思で出て行かなければいけない。パートナーができたら2人で一緒に新しい家を育て、そうでなくとも、自分の家か店か、とにかくどこかで帰る場所というのを見つけるのだろう。

 

 

わたしが読んだ文章では男についてだけ書かれていたが、女も出て行くに越したことはないだろう。親と同居するにしても、子が主になった方がいい。

 

 

今の社会では家を出て別の家族を築くのならいいが、ただ孤立するだけのケースも多い。わたしが今出ていくとそっちになるので、無理はしないでおこうと思っている。でも主でもなく、子のままでも嫌なのだから、さてどうしたものかな。

 

 

こういう家に住みたい

 

 

 

 

素人でもヘタクソでもやりたいことをやる

飽きたら初挑戦できるものを探す。これに限る。

 

 

 

 

 

今日はすでに出来上がっている袖なしエプロンに袖をつけてみた。

 

 

洋裁の練習がてら、エプロン袖なし、袖つき各一着を作ってを母にプレゼントしたところ、袖なしだと寒いので冬には着ないという。「エプロンは服を汚さないようにするものだから、下に着こんだら袖なしでもいいでしょ」といったのだが、頑なに着ようとしない。この石頭め。だが仕方ない。ならば、と思い立ち、袖なしに着脱可能な袖をつけることにした。

 

 

何もないところから袖を付け足すのは初心者には難しい。でもやると決めたらやる。YouTubeと別のエプロンの型紙を参考に、見様見真似で線を引いてみた。着脱方法はファスナーで、袖の取り外しができるブルゾンみたいな仕様にすることに。袖はバイアステープを付けた方がいいだろうかと思い、本当は持っているのだが好奇心に任せて今回は自作してみた。

 

 

すでに完成したエプロンの袖口のバイアステープをほどき、ファスナーをつけ、袖口も作ってつけてみたら、まあまあうまくできた。初めてにしては上出来。

 

 

できたよ、と母に見せると「ここまでやったの!? すごいというか、この熱量を他に活かせないものかねえ」とつまらないことを言ってきた。

 

<あなたが知らないだけで、わたしは何するときもこの熱量なんです。というか、服作りに情熱燃やすことの何が悪いのさ>と肚の中で毒づいた。<そんなことを頑張るなら、金になる仕事に向けろ>と言いたいに違いない母には届かないので、もう反論するのは諦めている。

 

 

もともと袖なしが前提のエプロンだったので、袖を付けると胸まわりが少し動かしにくい。もし次に作るとしたら胸から肩にかけて余裕を持たせないと、不自然な形になるのだな。なるほど、人体というのはアシンメトリーなんだよな。などと考えながら鏡の前で身体を動かしてると「なにやってんの」と母が笑っていた。笑わば笑え。

 

 

せっかく作った袖だが、つけると身体が動かしにくいので母は着ないかもしれない。いや、気を遣って着るかもしれない。しかしわたしは自分のやりたかったことができて、思っていた理想にそこそこ近かったので大満足したので、着ないならそれでもいい。というか、わたしがもらったら絶対に着ない(笑)動きにくいし、袖をつけたらデザインもイマイチだもの。

 

 

***

 

 

誰にも頼まれてないし、何の得にもならない。母が着なければ労力も材料費もパーになる。でも、たったひとつ、そして最大の理由はわたしがやりたかったからやった。

 

 

今回の挑戦は初心者にしては難易度が高かったんじゃないかと思う。でも、ヘタクソでもできた。それがうれしい。服を作ることができる、ということの確信がまた深まった。

 

 

洋裁もきっと料理と同じだ。下手でも初めてでも、とりあえず手を動かせば作ることはできる。最初は人になんて出せないレベルが、目玉焼きくらいはできるようになり、そのうちオムレツができるようになり、いつかオムライスや天津飯が作れるようになる。

 

 

だったら洋裁だって、最初は巾着袋だったのがエプロンになり、パンツやスカート、シャツもいつか作れるはず。

 

 

わたしはフランス料理や高級中華・懐石料理を作らない。本気でやりたければできる気がするけど、食材費や手間を考えると自分で作ってまで食べたいと思わないから。かわりに、手ごろな値段でおいしい食材を探し、手塩にかけて育てた庭の無農薬野菜を使うことはある。職人の道具を使わないけれど、持っている包丁をこまめに研いだり道具を大事にし、作業は丁寧にする。有名店の味でなくとも、自分の料理にいつも満足している。

 

 

それと同じように、わたしはハイブランドの服を作りたいとは思わないだろう。服の形はベーシックで質の良いトラッドが好き。「あの生地を使ってこういう形のものが欲しい」、と思ったらすぐに図面が浮かんで作れるようになりたい。きっと、お金があったとしても、自分の手で何かを作りたい。高い服を買うお金があるのなら、その分を上質な材料費に回してやる。

 

 

***

 

 

友達に趣味の話をすると「器用だね」など言われることが多いが、まったくそんなことはない。何をやってもヘタクソだけど、何かにはまったらのめり込むだけのこと(そのかわり、飽きっぽい)。

 

 

7歳の時、生まれて初めて作ったクッキーは、しっかり混ぜていなかったので部分的に苦くて、家族からさんざんな言われようだった。悔しくていまだに覚えている。

分量を間違えて死ぬほど甘いケーキを作って、一口食べてしばらくして「おいしい」といった父の顔が引きつっていたことも覚えてる。

それでも楽しいから作り続けていたら上達して、いまはみんなおいしいと言ってくれる(すべて本音とも思わないけど)。

 

 

バカにされたり笑われたり呆れられたり、マイナスに見られることだらけの中で、誰かにとって、ほんのひとつかふたつ、器用に見えるだけなのだ。

 

 

マイナスに見られているのを感じると、恥ずかしさとか悔しさとかもあるけれど、他人に見せるためにやってないので、しばらくすると忘れる。必ず次は少しでもいいものを作る自信がある。今日の母のように、バカにしてきた相手に、<何も挑戦しないあなたよりずっと楽しいけどね>、って心の中で舌を出したりね。

 

 

最近すぐに人生飽たなあ、とかすぐ思ってしまうのだけど、探そうと思えばやりたいことは見つかるもんだ。今日やりきったので、明日、また何をしようか悩むかもしれないけれど、明日は明日の風が吹く、とな。

 

 

眠くてなにを書いているのか分からなくなってきた。でもいいやアップしてしまおう。

 

 

 

老舗ブランドは発酵している

こないだ、トーク番組「まつもtoなかい」を見ていたらEXILEのHIROが出ていた。名前が出てくるまで、この人誰だろう、テレビの名プロデューサーとか? と思っていたら、なんとHIRO。知らない間にイケオジになってる……。裏方に回ったことは知っていたが、わたしの中では現役引退時くらいのビジュアルで止まっていたので、慣れるまでに少し時間がかかった。

 

 

今回は、ビートたけしダウンタウン松本の対談が目玉だったが、印象に残っていたのはHIROの短い話だった。

 

 

下記、細かいことはうろ覚えで、わたしの都合の良いように解釈しているかもしれないが、あしからず。

 

 

EXILEという看板を残したままプロジェクトのような形にしたことについて、中居から、どういうつもりでやっているのかを聞かれ、「せっかくここまで成長させたのに、終わらせるのがもったいないから」と返事をしていた。

 

 

EXILEの中でいろんなユニットをつくって、人が出入りするのも悪くない。世界的なハイブランドも、たとえばディオール(だったっけ)だって、ディオールというブランドを維持したまま、トップデザイナーは変わっている」というようなことをいっていた。

 

 

この考え方は前にも見たことがあった。寺田本家の書籍「発酵道」と一緒だ。

 

 

 

 

寺田本家というのは数百年の歴史がある老舗の造り酒屋。代々、女の子しか生まれないという不思議な家系で、後継ぎはお婿さんなのだとか。発酵道は23代目が書いた本ですごく面白かった記憶がある。

 

 

そこで、微生物の活動について書かれていた。(以下、こちらもわたしの意訳)

酒を造る過程では微生物の力が不可欠だが、微生物は常に入れ替わっている。必要な時に必要な微生物が発生し、仕事を終えるといつのまにかいなくなる。そういう変化を経ておいしい酒ができる。

 

 

人間も発酵過程のように、必要な場所で必要な働きをして、もし慣れ親しんだ場所を離れるとしても、それはそれで必要なことなのだ。役割を終えた菌が「まだここにいたい」なんて主張しない。別の場所にいけばまたその時点の自分の役割がある。

 

 

しかし人の社会ではそうもいかないことが多い。頭のどこかではもう離れるべき場所だと分かっているのに、「いま仕事を失えば家族を養えない」「せっかく築いた地位がゼロに戻ってしまう」「ほかでやっていく自信がない」など、不可抗力だと信じていることやエゴが自分をムリヤリ引き止める。気の迷いかもしれない、と考えを打ち消し、変化を拒む。

 

 

冷静でない時は判断を誤る可能性もあるので、なんでもかんでも気の向くままに動けばいいというわけではないが、正しい直観を見極めるには訓練も必要なので、逃げの姿勢のままでは何も変わらない。

 

 

 

ディオールだってブランドくらいは多少知っているけれど、内部の動きなんて知らない。ただ、世代が変っても愛される店はかならず微生物のように変化しているはずだ。

 

 

 

 

ここでわたしの体験談を。

「変わらない味」と何十年も親しまれている店は、少しずつ変えていることが多い。知り合いが長年通うラーメン屋について言っていた。わたしも地元のお気に入り店について、そういえば味は少しずつ変わっているなと思う。昔のままならたぶん今は食べていない。基本は変えず、しかし時代にあった味覚というものがあるのだ。本当にまったく変えていない店は、うまくいっていなかったりする。

 

 

ラーメン屋とディオールを一緒にしたら怒られるかもしれないが、一緒だ。

 

 

しかしディオールの歴史を見たらまだ100年も満たない。なら、寺田本家の方がすごいんじゃないか。もちろん、規模も認知度も比較にならないけれど。

 

 

数百年続く寺田本家に女の子しか生まれないという不思議な縁も、それに関係ありそう。男系だとつい跡取りに固執して、本来不要な思惑が入りやすいのではないか。家を守るのが直系である女性で、蔵を回すのが外から来た男性という形は、自然法則にマッチしているのだろう。ハチやアリが女王を中心に世界を形成するように。家族、酒蔵、という単位は違えど同じ。ということは、大きい組織もこの法則に乗っとってやればうまくいくはずだと思った(必ずしも生まれた時の性別は関係なく、役割として)。

 

 

HIROに話を戻すと、そういえばEXILEでなくともモー娘。やAKBの方が先にやっている。ただ、詳しくないのだが、これら女性アイドルはまだ人気なのだろうか。最近はk-popっぽいグループをよく見かけるけど。最近、名前が変わったアイドル会社は確固たるブランドを確立していたようだが、あれは歪んだ忖度が生み出しただけなのか、多少は”発酵”の過程を踏んでいたのだろうか。

いま有名なグループが10年、20年先も残っていたら、「ああ発酵がうまくいったんだな」と思う。

 

 

大きなヨソの組織の話はいいとして、自分ごとで考えてもやはり同じだ。だって自然法則なのだから。たとえば不本意な形で家族と離れることになったときも、やむをえない流れだったのであれば、受け入れて身を任せているうちに、次の出会いややるべきことは必ずある(死別だとつらいけれど)。

 

 

わたし1人のことをとってみても、たとえば仕事を辞めたい時に、「でも次見つかるか分からないし」「自信ないし」と思っても、本当はどうしても辞めたい! と思ったらしたがってみたら面白いことになったりする。過去、この逆の話があった。縁もゆかりもない業界に、ただやってみたいという理由で飛び込んで、その後の人生に大きな影響を与える経験をさせてもらったこともある。昔いた会社は給料もよく、比較的安定していたが、ここにいたらダメだと逃げるように止めた。それが正解かは分からない。選んでいない未来は比較しようがない。だから今がベストと思うしかない、というのは一理あるが、嫌なことも含めて後悔していなければそれが正しい道なのだ。後悔しているなら今から取り戻しに行けばいい。

 

 

矛盾なく人生を歩むことはなかなか難しい。でも、それに近づくことは努力次第で誰にでもできるのだと思う。微生物のような人生を。

 

 

日本酒が飲みたくなってきた

 

 

 

PMSは自分の本音に気づく機会

月経前症候群PMS)がひどい。普通は思春期に多いという記載をみたが、わたしはアラフォーから顕著になった。ないに越したことはないけれど、最近、自分を顧みる機会としてとらえると、自覚のなかったことに気づくようになった。

 

 

けっこうしんどいんです



 

下腹部が重いのはよくあることで、生活に支障をきたすほどの痛みは数か月に一回あるかないか。それはあまり気にしていないが、イライラがすごい。真っ只中にいるときは、「わたしはただ純粋に腹が立ってるんだ」と信じているけれど、明らかにこの時期になるとよくブチギレるし、「人生終わりだ、もう死ぬしかない」と絶望するのもこの時期。月経がはじまると途端に収まるのだからわかりやすい。同居の母も内心「うわ、生理前だ」と思っているらしい。そう思われるのも腹立たしいが、事実なので仕方ない。

 

 

「本来、PMSなんてないのが健康な状態だ」というのをどこかで見かけた。でも、わたしは人生でいまが一番健康のはずだ(食中毒の記事でも書いた)。過去は仕事で常に緊張状態、ストレスは高く、食事もジャンクフードや外食多めだった。今はその真逆。別のストレスはあるけれど、前と比べるとずっとマシ。なのにPMSはそのころからの方が顕著。

 

 

わたしはPMSがひどくなったのは、身体の機能が正常になった証だと思っている。

月経では血を外に出す。月経は哺乳類の雌では当たり前の現象だが、男の場合、普通に生活していて血を血のまま排出することはない。便や尿、汗や皮膚、毛など正当な排泄ルートよりも短縮して直接血液を排出するのは、女性の月経のみ。これって意外とすごいシステムだと思う。

その時ついでに血液中の汚れも排出しているので、月経はデトックス期間でもあるという。臓器や皮膚などを通るよりも直接的なので、排毒効果も強いだろう。

女性と男性の平均寿命の差はそのまま月経の合計時間という話を聞いて、あながちウソでもなさそうだと思った。

 

 

しかし汚れが溜まりすぎていると、反応が鈍るものだ。前に食中毒の話を書いたが、身体が敏感な方が何かと反応が早い。それは身体が弱いだけの場合あれば、敏感だからこその正常な反応の場合もある。わたしは大人になって以降、今が一番心身ともに健康なので、後者だと思っている。

 

 

 

そこで、最近ひどくなったPMSのイライラについてもう少し考えてみた。

すると気づいたのは、PMSの時に爆発するのは、大抵、ずっと前から気になっていることだ。普段なら、「気になるけれど、まあ少しぐらい我慢するか」と、気持ち的にも余裕があり、理性的に考えるようにして気をそらしている。それが、月経前になると「絶対に許せねえ」となる。そう、いつも気にしていないフリをするだけで、本当はまったくそうではないのだ。とすると、PMSのイライラは自分に正直になった結果といえる。

 

 

最近の話で、PMSでキレてあるものを大量に捨てたことがある。勢いでやってしまったので翌日は罪悪感もあったのだが、実は前から捨てたいものだったので、その次の日には「よかった」と一転していた。キレる前に対処しておけばもう少し穏便にいっていたなと反省した。

 

 

また、母がもっと真剣に考えるべきことを適当にしているのにもブチ切れたことがある。いつもなら、”家族と言えども人は人”、本人が何もしないという選択をするなら、その意思を尊重すべきだと思っていたが、PMSで「もっと自分のことを考えろ、行動すれば済むことを先延ばしにしてんじゃねえ」と爆発。

 

 

怒ることは良くないし、たとえ良かれと私が思っても、必ずしも相手にとっていいことではないだろう。基本的にそういう価値観なので、熱血教師のような怒りに、我ながら「珍しいな」と後になって思った。

 

 

しょうもないことだが、わたしにとっては相当に我慢していることが、PMSの時期に意外とある。これに気づいて振り返ると、そろそろ爆発しそうな案件が一つ浮かんだ。PMSでめちゃくちゃになる前に、穏やかに解決したい。

 

 

「健康ならPMSにはならない」という人は、心身ともに健康なのだろう。しかし現代にそんな理想的な生き方をしている人が多いものかな? どこかにそういう世界もあるかもしれないが、わたしの周りは、いいことも悪いこともそれなりの人々ばかり。だからPMSは通常運転といっていいかもしれない。理想の生活でもないのに、PMSがない、という人がいたら鈍感になってしまっているだけかもしれない。

 

 

PMSにならないのが普通」ということばに引っ張られて「今の自分はダメなのか」となってはいけない。自分を責めるくらいなら、まだまだ我慢していることがあるのだな、頑張ってるなわたし、と思うことにしている。そして、気づいていなかった怒りや思いがあふれ、そこで初めてわかる事実もある。身体からのサインであり、それはPMSという機会を通じて現れるのだから、むしろラッキーだ。身体はいつだって良くなりたがっているのだから、すべての現象を自分の糧にしたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

すべては自力。無料から始める美容のススメ

健康と美容のため、いままであらゆる整体やマッサージ、鍼灸パーソナルトレーニング、いくつかの化粧品を試してきた結果、「他力よりまず自力だろう」と思って一度全部やめてみた。

 

 

仕事で緊張状態が続いていた30代前半から整体や身体のメンテナンス系のお店に行くようになり、かなりの種類を試した。

 

 

エステとか高級基礎化粧品などお金がかかる美容にはもともと興味がなく、コスメは20代前半がピークで年々興味が薄れている。仕事をやめた今は眉毛とリップしか塗らない。好きなイフルエンサーがプロデュースした化粧品が気になって買っていた時期はあったけど。

 

 

表面的なことにお金をかける意味を感じないが、美に興味がないわけではない。

 

 

素肌が美しければファンデーションなんてナシか薄くていいだろうし、細かいメイクをするにしてもパーツ自身の良さありきだろう。くすんだ目元に塗ったアイカラーより、白い目と明るい肌で何も塗っていない方がいい。もし塗るとしても、本体そのものを磨いていたら化粧ノリもいいはず。何をするにもまず自分の身体が先、ということを考えている。

 

 

わたしは身体のクセがあってねじれているので、整体などの店にいくたびに「どうなっていますか?」「どうすれば治りますか?」と聞いていた。本当の答えを知りたいというよりは、このジャンルの人はどう考えているのだろう? と意見が知りたかった。ただ、どこも明確な答えは返ってこなかった。整体やパーソナルトレーニングは多少正解に近いものを示してくれたが、根本原因を探るまではいかなかった。

 

 

みんな自分の専門以外は知らないし、根本原因から探ることはしないのだな、と思って諦めた。

 

 

同時進行で、さまざまな健康・美容情報も集めていたので、正誤はともかく、できることは試して実践してきた。健康ジプシーにも飽きた頃、時間的余裕もできて自分と向き合う時間が増えた。そしたら、根本原因なんて自分が一番わかっているじゃないか、と気づいた。

 

 

わたしの身体がねじれているのは、暇すぎてオンラインゲームばかりしているからだった。夢中になりすぎて、長時間同じ形が固まっているので、それが癖付いてしまった。身体がねじれると、変なシワができてしまった。歳のせいでもあるだろうが、生活習慣の方が影響が大きいと思う。

 

 

そして、オンラインゲームをやりすぎるのは、自分の生活態度の問題だった。やりたいことがあまりなく、YouTubeや動画再生して耳で音を聞きながら、ゲームばかりしている。だったら、この生活習慣を改めれば姿勢改善できるはず(これが一番難しい)。

 

 

いくら店に行って一時的に身体の歪みが取れたところで、同じ生活をしていたら一瞬で元に戻る。そんな当たり前のことを忘れていた。専門家の話を聞くことで意識するきっかけになるし、プロの手にゆだねることで変わることももちろんある。でも、毎日のように行くわけにはいかず、結局はすべて自分次第だろう。

 

 

化粧品も、いままでほぼ化粧水も乳液も使わず馬油だけで過ごしていて、冬以外はそれだけで十分だった。わたしは子どもの頃から乾燥肌なので、冬は乾燥しやすく、おかげでシワもできやすいのが難点。でも、本来であれば何も問題なく生きていける機能を備えているはずだ。健康に生まれたなら、完璧な状態のはず。

 

 

そうやって見直すと、まず笑い方が引きつっていたせいで顔の筋肉の動きが不自然。愛想笑いが苦手なのに、仕事で頑張っていたのだ。ねじれの元々の原因も仕事だった。身体の片側を強ばらせないと落ち着かないので、それが通常運転になっていた。

 

 

乾燥については詳細は原因は分からないが、心理的作用もあるし、内臓が弱っている可能性もある。身体のねじれによって骨格全体がゆがみ、片方の筋肉がついて片方落ちてしまっている。それによって片側にシワができやすくなり、そっち側だけたるんで毛穴も大きくなりがち。

 

 

結局、すべては身体の歪みに起因していた。エステで顔だけ触っていたり、マッサージにいって筋肉だけもんだところで、わたしの場合は根本解決にならないのだ。乾燥についてはもう少し深堀りして考える必要があるけれど、極論をいうと、南国生まれのDNAだったら乾燥に弱い可能性もある。もちろん、自分の祖先が南国生まれかどうかなんて知らない。3、4代前が現在より少しだけ南というのは知っているが、それより古い祖先がもっと南の可能性はゼロではない。

 

 

乾燥肌だからと、よく分からない横文字の成分が入った化粧品を使い続けるのも抵抗がある。いくら効くとしても、高価すぎてもこまるし、基礎化粧品を塗りすぎてテカテカにはなりたくない(どうしても原因が分からないなら、深いシワが刻まれるよりはテカテカの方がマシと判断するかもしれないが)。

 

 

乾燥はひとまず置いておくとしても、それ以外は日々の努力で何とでもなる。顔が一番気になる部分とはいえ、結局は身体全体の問題であり、スタイル含めての美なのだ。諦めさえしなければ、健康も美しさも手に入れることはできる、と信じることこそ、第一歩だと思う。

 

 

だからまずは歪みを取るストレッチや動きをする。階段の上り下り、椅子から立つとき、外を歩くとき、例え座っていようとすべてが筋トレだ。そこで身体をまっすぐにし、肚に力をいれてリラックス。時間があればちょっと重いものをもって、弱っている側を鍛える。

 

なにより、そもそもの習慣を改める(努力をする)。ゲームをせずに済むように工夫する。立つ時間を増やす。

 

 

できなくても、気づいたら意識する。これだけでもかなりかわるはずだ。

 

 

やることをやった上で、店にいけばもっと良い効果が得られるだろう。よくメディアで芸能人やモデルの健康法や美容法を紹介しているが、あの人たちは美しさを保つのも仕事のうち。テレビで紹介している方法なんてごく一部だろう。言えないことや言いたくないこともあるだろうし。それを見て一般人が表面だけ真似しても意味がない。もし自分が芸能人なら? モデルをやるならどうしているだろう? と考える方が近道できるだろう。

 

 

そうそう、こないだ「かつみさゆり」のさゆりちゃんを久々にテレビで見て、その美しさ、特に足のきれいなことにびっくり。バービー人形よりさゆりちゃん人形だろ、というくらいスタイル抜群。ぶれない芸風とかわいらしい顔もあって、なんかのマスコットキャラクターにしか見えなかった。

 

 

早速、インスタや動画を見ていると、美脚の秘訣、のような動画がアップされていた。

 

 

しかし動画を見ると、ありきたりな方法だった。

きっと具体的な方法よりも、美しい足を保とうと努力する姿勢が美脚を生み出したと思われる。いつも足を見せる衣装を着て、テレビや舞台でたくさんの人に見られていたら意識せずにはいられないだろう。

通りすがりの一般人に「あら、きれいな足ね~」なんてさんざん言われてきただろうし、それが効果絶大なんじゃないだろうか。さゆりちゃんの美脚になりたければ、さゆりちゃんのように見られることを常に意識し続ければいいはず。

 

 

ということで、わたしも外を歩くときは「さゆりちゃんマインド」みたいなものを勝手に設定している。ミニスカは履かないので気分だけね。すぐ忘れるけれど、何も考えないよりは効果があるだろう。馬鹿にされるのが分かっているので人には言わないが、「自分には絶対無理」と最初から決めてかかっている人と、「わたしも頑張れば、少しでも近づけるかも」と思っている人が同じなわけない。都合が良くて人にも迷惑をかけないことならば、信じたもの勝ちなのだ。

 

 

さゆりちゃんごっこを始めたのは最近だが、体型維持だけは若い頃から異常に固執しているので(崩れたら人生終わり、くらいの強迫観念だった時期も)、スタイルはたまに褒めてくれる人もいる。遺伝だと言われると困るが、それだけではなかった!と自分だけは信じている。

 

 

 

 

 

抽象度と夕飯メニューとセンスと

質問です。

 

豆乳ごま鍋とシチュー

五目そばと八宝菜

 

それぞれ、同じだと思う? 違うものだと思う?

 



 

わたしが豆乳ごま鍋を作った次の日に、母がシチューを作った。

 

わたしが五目そばを作った次の日に、母は八宝菜を作った。

 

 

知らない人のために説明すると、豆乳ごま鍋というのは、豆乳と練りごまの入ったコクのある出汁をベースにした鍋。シチューは牛乳とバターでコクを出しているものなので(基本はルーだけど)、和か洋か、具材の違いしかない。

 

 

わたしにとって豆乳ごま鍋はトロミのついていない和風シチューだし、その日の五目そばの具材は翌日の八宝菜とまったく同じで、味付けもほぼ一緒。麺があるかないか、スープの量とトロミくらいしか違いがなかった(一般で知られる五目そばとは違うかもしれないが、今回は八宝菜とほぼ同じだった)。

 

 

母に「前日の夕食から連想して作ったでしょ?」というと、「違う」という。ならば、無意識で連想したに違いない。そうでなければ、こんな似たり寄ったりの料理をつくるはずがない。しかし、それも「違う」らしい。無意識なのだから、違うかどうかもわかってないと思うのだが。

 

 

前日の残り食材を流用したかったとか、豆乳ごま鍋を見ていたらどうしてもシチューが食べたくなった、というならまだわかる。でもそうじゃないなら、もっと別のメニューがあっただろうに。と言っても、母は偶然だと頑なに言い張った。わたしが詰めるので意地になっていた可能性もある。

 

 

母に言わせると豆乳ごま鍋とシチュー、そして五目そばと八宝菜はまったく別の料理なのだ。だったら、豆乳ごま鍋の次の日がシチューなのは偶然か? 五目そばの翌日が八宝菜なのは偶然か? わたしからすると、それこそ「違う。偶然ではない」。これは毎日のように観察しているうちの母だからこそ言い切れる話で、他の人が同じことをしてもここまで言い切ることはない。

 

 

母とわたしの認識の違いは、そのまま抽象度の違いといえる。

 

 

わたしにとって、パスタと焼うどんと焼きそばは「麺×”焼きもの”」というジャンルで一緒。焼き魚と焼き鳥はシンプルな塩味なら「動物性たんぱく質×塩味×焼き物」という意味で同じ。タルト(生地)とクッキーも場合によっては「バターと砂糖と卵で作った焼き菓子」という意味で同じ。

 

 

抽象度のレベルはさまざまで、私の中でも基準はない。ただ、料理好きのわたしとしては、どうしても食べたいのでないなら、焼きうどんの次の日にパスタ、焼き魚の次の日に焼き鳥を作らない。料理には焼き物、蒸し物、揚げ物、生という調理法が合って、同じ焼き物でも組み合わせや味付け次第で、少しでも距離を離すことができる。

 

 

おそらく、母は焼きそばと焼うどんは同系列と判断したとしても、パスタは別物。焼き鳥と焼魚は別物。タルトとクッキーも別物(わたしがお菓子作りが趣味だからそう思うだけで、母と同じく別物と捉える人の方が多いかもしれない)。

 

そばとうどんは、麺の違いのみだし、うどん屋にそばがあったり、その逆もあるので、同列と認識しやすいだろう。

 

 

もちろん、それがダメというわけではない。連想して似たようなものを作ってもいいし、無意識でもいい。ただ、センスがないと思うし、無意識って怖いなと思っただけで。

 

 

何にしろ、作ってもらっているなら文句を言うべきではないけどね。

 

 

と思ったら、なんと今夜の夕飯は和風シチューになった。思考は現実化する……(もっと夢のある現実こい)