おやつく後記

日常のことなど思いつき

いまさら森博嗣にハマる

今週のお題「最近読んでるもの」

 

 

いくつかの小説のタイトルは聞いたことがあったが、読んだことはなかったので、「すべてがFになる」とか「スカイ・クロラ」の著者というのを知ったのはここ最近のことだった。この2作品すら、小説はおろかドラマもアニメも見たことがない。

 

 

森博嗣を知ったのは、1年ほど前に行きつけのコーヒー屋の本棚にあったのを、ふと手に取ったのがキッカケだった。何の本だか忘れたが、少なくとも小説ではなかった。コーヒー豆が焙煎されるまでの時間、夢中で読んだ。どんな人が書いたのだろうと思って経歴を見ると、工学博士で小説家だという。わたしは理系の文章を好む傾向がある。

 

 

コーヒー屋を出たその足で本屋に向かい、著書を2冊買った。どちらも仕事について書かれた本。わたしは中年にもかかわらず、お前は若者かよ、と突っ込まれそうレベルで、仕事についての悩みが尽きないのでね。。いまも家にあるが、内容は忘れた。また読みなおそう。

 

 

しばらく存在を忘れ、なぜだか今になってふたたびマイブームがきている。はじまりは、吉本ばななのエッセイを読んだことだった。図書館の入荷コーナーで、彼女の本を見つけて読んだらおもしろかった。吉本ばななについても、名前も「キッチン」の存在もよく知っていたが、ただ存在を知っているだけで小説もエッセイも未読、対談本を少し読んだことがある程度だった(こないだはじめて、webに公開している無料の短編を読んだ)。それが良かったので、小説家の書くエッセイが読みたくなり、家にあった森博嗣を思い出して図書館に行ったら、たくさんあったので、借りまくっている。

 

 

すると、森氏のエッセイの中で、よしもとばななと仲が良いということが判明した。自分の興味の赴くままに色んな著者の本を読んでいると、自分が読んでいる人同士のつながりがけっこうある。何も考えずに直観で選んでいるので、「なぜここが?」と不思議なのだが、考え方や興味の方向が似ているのかもしれない、と勝手に解釈して勝手に喜んでいる。

(にしても、森氏が唯一読む小説が吉本ばななっていうのは興味深い)

 

 

1年前に2冊買った時は気づかなかったのだが、森博嗣の思考回路が自分と似すぎていておどろいた。もちろん、森博嗣ほど賢くないし、あそこまで合理主義でもないが。周囲の人間にいっても理解が得られないから、「わたしが間違っているのだろうか……」と自信をなくしてしまうような考え方も、森氏が「自分はこうだ」と言い切っているので光が見えた。ただ、森氏は合理的すぎて、他人からの視点に対して恐れがなさすぎる。臆病者のわたしが実践できるかは、また別の話。森氏のように、わが道をいく人間になりたい。

 

 

いま読んでいる中の1冊

 

 

ちなみに森氏の小説も読もうとしたが無理だった。好き嫌いというよりも、もはや今のわたしは小説をじっくり読むことができない。別のブログでも書いたのだが、ある年齢を超えてから他人の作り上げた世界にどっぷり浸かることができなくなった。

 

 

最近、ミステリーで気になった作品があったのだが、飛ばし飛ばし概要をつかんで、関係のないエピソードはぶっ飛ばして、数百ページを20分ほどで読んだ。それ以外で読むとすれば、10代までにハマった古い小説をパラパラとめくるくらい。それも物語を楽しんでいるのではなく、懐古の情に浸るためだ。

 

 

 

奇遇にも森博嗣も小説を読まないという。前に見たインタビューで、堺雅人も小説は読まないといっていた。きっと青年期までに小説を多読した人間は、一定年齢を超えるとフィクションへの興味が薄れるのではないか。いまのわたしは、他人の描くフィクションより、ノンフィクションの方がおもしろい。

 

 

「小説を書くなら、小説を読まなくなった40歳前後でいいのでは」みたいなことを書いていて、「読めなくていいのか」という安心感と、「じゃあ、いまのわたしが書いてもいいんだ」という謎の自信をもらった。

 

 

森(氏)思考の共感ポイントはたくさんあるのだが、特に印象的だったのは、「自分はこう思うが、それに当てはまらない人がいたからといって、何とも思わない」という意味の”断り”をよく入れていること。

 

 

わたしの周りにもよくいる。自分の意見を言っているだけなのに、批判されたと勘違いして、言い訳をしてきたり、謝罪をしてきたりするのだ。いや、そういうつもりではない、とこっちがいくら言っても、もはや聞いちゃいない。こういうタイプとは建設的な話ができないので苦手だ。

 

 

SNSを見ていても思う。客観的意見を述べているだけなのに、「批判は良くない」という批判をする人も多い。SNSは玉石混合のラクガキと思っているので、いろんな意見があって当然だ。それを批判するのも、”批判”を批判するのも自由だけど、「そういう意見もあるのだな」で流せない人が多いらしい。いちいち反論するのは子どもなのだろう、と想像しているけど実際どうなんだろうか(ネットでは年齢が分からないし、最近の子は文章が上手らしい)。

 

 

正直、わたしも未熟な人間なので、赤の他人の書き込みやブログを見て「それってわたしのことじゃん」とイラっとすることもある。だから文句を言いたい人の気持ちもわかるが、当たり前だけど、わたしのことを言っているのではない。そんなことより、自分が反応したことばは、自分が気にしていることなんだな、という気づきをもらったことに感謝する。何度見ても反応してしまうなら、目に触れないようにする。ケンカを吹っ掛けるほど体力はない。

 

 

色んな著書で森氏が断りを入れているところを見ると、多くの人からクレームが届くのだろう。有名人は大変だ。

 

 

森氏の情報を知らなかったときは、同じくらいの世代なのかと思っていたが、父親ほど年齢が離れていたので驚いた。わたしがなぜ同じくらいだと思ったのかというと、自分と思考回路が似ているから、というただそれだけの理由かもしれない。あとは年寄りに多い、断定的な主張がないところだろうか。謙虚というよりは、ニュートラルな姿勢を感じる。近影とやらの写真は暗くてよく分からないが、きっと実年齢より若く見えるだろう。

 

 

特定の人物にハマるとすべてを知りたくなる。今回の森博嗣はエッセイをたくさん出しているので、ありがたい。読めば読むほど共感度が増して「そうそう、これよね」となる。これは恋だろうか? ある人によると、「恋というのは、”その人と一緒にいる自分を好き”という状態」だとか。だったら恋だ。

 

 

ひとつ気になるのが「mori magazine(モリ・マガジン)」の質問コーナー。この本は「森氏が編集長になって雑誌を作ってみた」みたいなコンセプト。2017~19年にかけて年1冊ずつ、vol.3まで出ているところを見ると、人気らしい。

 

コーナーは、事前に募集した質問をインタビュワーと会話しながら回答していく形式。重いものから軽いものまでさまざまなのだが、森氏は「わかりません」とか「いいんじゃないですか」とか、9割以上の質問について1~3行ほどでバッサバッサ切り捨てていた。

 

これはどういう雰囲気で行われていたのだろう? 冷めた森氏に対してインタビュワーは明るい様子なので、気心知れた関係性なのだろうが、それにしてもシュールすぎるだろ、と突っ込まずにはいられなかった。せめて(笑)でもあれば、まだ想像できるが、それもない。「(笑)は入れない」というルール設定をしたに違いない。

 

 

vol.1では1~3行ほどで終わっていた回答だったが、vol.2では行数が増えていたので、読者のクレームがあったのかもしれない。わたしとしては、このコーナーのおかげで森氏によりハマった。

今度、vol3も見てみよう。図書館で読むと思うけど、すみません(森氏は図書館に小説が並ぶことをよしとしていない)。また別の機会に何か買います。

 

 

MORI Magazine

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この記事にタグをつけようと「森博嗣」と入力したところ、「森博嗣教」「森博嗣信者」などと出てきた。そこまで熱狂的なファンがいるのか。