おやつく後記

日常のことなど思いつき

渾身の長文記事が一瞬で消えた

さきほど、お菓子づくりブログの方で、久々に渾身の記事を書いたのが一瞬にして消えた。字数にして4,000字越え。普段でもそのくらいならすぐ書けるけど、今回のブログはそれなりに構成を考えて、深い考察も交えた文章だったので、かなりショックが大きい。3時間以上かかったし。

 

 

 

写真を挿入したときに消えてしまったらしく、ctrl + z を押しても変化なし。いやん、ウソやろ、ウソやろー! と連打するけど変化なし。救済システムないんかーい! うおいハテナ! 

いや、こまめな保存さえしておけばよかったのは分かってますよ。わかってるけども! 気を付けたらいいんでしょ! わかってますよ。

 

 

1,500字ほどは生き残っていたのだけど、もう書き直す気にならず、消してしまった。絶望とはこのことです。

 

 

「いつも適当なのに、真面目に書いたのがいけなかったんだろうか。これは、真面目な記事なんて書くなというサインだろうか」なんて都合のいいことを考えてみたりして、自分を慰めた。

 

 

久しぶりに有益な文章が書けたなあと思ったのに。気が向いたらまた書こうかな。気が向いたら。

 

 

 

 

いまさら森博嗣にハマる

今週のお題「最近読んでるもの」

 

 

いくつかの小説のタイトルは聞いたことがあったが、読んだことはなかったので、「すべてがFになる」とか「スカイ・クロラ」の著者というのを知ったのはここ最近のことだった。この2作品すら、小説はおろかドラマもアニメも見たことがない。

 

 

森博嗣を知ったのは、1年ほど前に行きつけのコーヒー屋の本棚にあったのを、ふと手に取ったのがキッカケだった。何の本だか忘れたが、少なくとも小説ではなかった。コーヒー豆が焙煎されるまでの時間、夢中で読んだ。どんな人が書いたのだろうと思って経歴を見ると、工学博士で小説家だという。わたしは理系の文章を好む傾向がある。

 

 

コーヒー屋を出たその足で本屋に向かい、著書を2冊買った。どちらも仕事について書かれた本。わたしは中年にもかかわらず、お前は若者かよ、と突っ込まれそうレベルで、仕事についての悩みが尽きないのでね。。いまも家にあるが、内容は忘れた。また読みなおそう。

 

 

しばらく存在を忘れ、なぜだか今になってふたたびマイブームがきている。はじまりは、吉本ばななのエッセイを読んだことだった。図書館の入荷コーナーで、彼女の本を見つけて読んだらおもしろかった。吉本ばななについても、名前も「キッチン」の存在もよく知っていたが、ただ存在を知っているだけで小説もエッセイも未読、対談本を少し読んだことがある程度だった(こないだはじめて、webに公開している無料の短編を読んだ)。それが良かったので、小説家の書くエッセイが読みたくなり、家にあった森博嗣を思い出して図書館に行ったら、たくさんあったので、借りまくっている。

 

 

すると、森氏のエッセイの中で、よしもとばななと仲が良いということが判明した。自分の興味の赴くままに色んな著者の本を読んでいると、自分が読んでいる人同士のつながりがけっこうある。何も考えずに直観で選んでいるので、「なぜここが?」と不思議なのだが、考え方や興味の方向が似ているのかもしれない、と勝手に解釈して勝手に喜んでいる。

(にしても、森氏が唯一読む小説が吉本ばななっていうのは興味深い)

 

 

1年前に2冊買った時は気づかなかったのだが、森博嗣の思考回路が自分と似すぎていておどろいた。もちろん、森博嗣ほど賢くないし、あそこまで合理主義でもないが。周囲の人間にいっても理解が得られないから、「わたしが間違っているのだろうか……」と自信をなくしてしまうような考え方も、森氏が「自分はこうだ」と言い切っているので光が見えた。ただ、森氏は合理的すぎて、他人からの視点に対して恐れがなさすぎる。臆病者のわたしが実践できるかは、また別の話。森氏のように、わが道をいく人間になりたい。

 

 

いま読んでいる中の1冊

 

 

ちなみに森氏の小説も読もうとしたが無理だった。好き嫌いというよりも、もはや今のわたしは小説をじっくり読むことができない。別のブログでも書いたのだが、ある年齢を超えてから他人の作り上げた世界にどっぷり浸かることができなくなった。

 

 

最近、ミステリーで気になった作品があったのだが、飛ばし飛ばし概要をつかんで、関係のないエピソードはぶっ飛ばして、数百ページを20分ほどで読んだ。それ以外で読むとすれば、10代までにハマった古い小説をパラパラとめくるくらい。それも物語を楽しんでいるのではなく、懐古の情に浸るためだ。

 

 

 

奇遇にも森博嗣も小説を読まないという。前に見たインタビューで、堺雅人も小説は読まないといっていた。きっと青年期までに小説を多読した人間は、一定年齢を超えるとフィクションへの興味が薄れるのではないか。いまのわたしは、他人の描くフィクションより、ノンフィクションの方がおもしろい。

 

 

「小説を書くなら、小説を読まなくなった40歳前後でいいのでは」みたいなことを書いていて、「読めなくていいのか」という安心感と、「じゃあ、いまのわたしが書いてもいいんだ」という謎の自信をもらった。

 

 

森(氏)思考の共感ポイントはたくさんあるのだが、特に印象的だったのは、「自分はこう思うが、それに当てはまらない人がいたからといって、何とも思わない」という意味の”断り”をよく入れていること。

 

 

わたしの周りにもよくいる。自分の意見を言っているだけなのに、批判されたと勘違いして、言い訳をしてきたり、謝罪をしてきたりするのだ。いや、そういうつもりではない、とこっちがいくら言っても、もはや聞いちゃいない。こういうタイプとは建設的な話ができないので苦手だ。

 

 

SNSを見ていても思う。客観的意見を述べているだけなのに、「批判は良くない」という批判をする人も多い。SNSは玉石混合のラクガキと思っているので、いろんな意見があって当然だ。それを批判するのも、”批判”を批判するのも自由だけど、「そういう意見もあるのだな」で流せない人が多いらしい。いちいち反論するのは子どもなのだろう、と想像しているけど実際どうなんだろうか(ネットでは年齢が分からないし、最近の子は文章が上手らしい)。

 

 

正直、わたしも未熟な人間なので、赤の他人の書き込みやブログを見て「それってわたしのことじゃん」とイラっとすることもある。だから文句を言いたい人の気持ちもわかるが、当たり前だけど、わたしのことを言っているのではない。そんなことより、自分が反応したことばは、自分が気にしていることなんだな、という気づきをもらったことに感謝する。何度見ても反応してしまうなら、目に触れないようにする。ケンカを吹っ掛けるほど体力はない。

 

 

色んな著書で森氏が断りを入れているところを見ると、多くの人からクレームが届くのだろう。有名人は大変だ。

 

 

森氏の情報を知らなかったときは、同じくらいの世代なのかと思っていたが、父親ほど年齢が離れていたので驚いた。わたしがなぜ同じくらいだと思ったのかというと、自分と思考回路が似ているから、というただそれだけの理由かもしれない。あとは年寄りに多い、断定的な主張がないところだろうか。謙虚というよりは、ニュートラルな姿勢を感じる。近影とやらの写真は暗くてよく分からないが、きっと実年齢より若く見えるだろう。

 

 

特定の人物にハマるとすべてを知りたくなる。今回の森博嗣はエッセイをたくさん出しているので、ありがたい。読めば読むほど共感度が増して「そうそう、これよね」となる。これは恋だろうか? ある人によると、「恋というのは、”その人と一緒にいる自分を好き”という状態」だとか。だったら恋だ。

 

 

ひとつ気になるのが「mori magazine(モリ・マガジン)」の質問コーナー。この本は「森氏が編集長になって雑誌を作ってみた」みたいなコンセプト。2017~19年にかけて年1冊ずつ、vol.3まで出ているところを見ると、人気らしい。

 

コーナーは、事前に募集した質問をインタビュワーと会話しながら回答していく形式。重いものから軽いものまでさまざまなのだが、森氏は「わかりません」とか「いいんじゃないですか」とか、9割以上の質問について1~3行ほどでバッサバッサ切り捨てていた。

 

これはどういう雰囲気で行われていたのだろう? 冷めた森氏に対してインタビュワーは明るい様子なので、気心知れた関係性なのだろうが、それにしてもシュールすぎるだろ、と突っ込まずにはいられなかった。せめて(笑)でもあれば、まだ想像できるが、それもない。「(笑)は入れない」というルール設定をしたに違いない。

 

 

vol.1では1~3行ほどで終わっていた回答だったが、vol.2では行数が増えていたので、読者のクレームがあったのかもしれない。わたしとしては、このコーナーのおかげで森氏によりハマった。

今度、vol3も見てみよう。図書館で読むと思うけど、すみません(森氏は図書館に小説が並ぶことをよしとしていない)。また別の機会に何か買います。

 

 

MORI Magazine

MORI Magazine

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この記事にタグをつけようと「森博嗣」と入力したところ、「森博嗣教」「森博嗣信者」などと出てきた。そこまで熱狂的なファンがいるのか。

 

 

 

ぼったくり土産物店での話

韓国旅行に行った時のこと。

 

 

わたし自身は、国内外にかかわらず観光というのに関心が薄れているのだが、母と叔母に誘われたので、だったら行ってもいいかな、くらいのノリだった。ただ、どうせ行くなら楽しもうという気持ちはある。用事で遠方に出かけたときは、事前に軽く調べたり、その場の気分の赴くままにふらふらと歩いたり。

 

 

だから、できるものならば、韓国でも鉄道にでも乗ってその土地の風を感じたかったのだが、年配者ふたりと行動を共にするとなると、そうもいかなかった。今回は母と叔母がメインなので二人を優先させることにした。

 

 

今回の旅行はわたしの案で、日本語ガイド付きの観光タクシーで回ることにした。歩き回ると体力のない母が疲れきってしまうのは目に見えていたし、韓国語はもちろん、英語もたいしてできない中でわたしが二人の案内役を買って出る気にはならなかったので、これがベストだろう。

 

 

観光タクシーは韓国語しか話せない男性ドライバーと、日本語堪能で愛想のよいベテラン風おばちゃんガイドだった。

 

 

ガイドは、わたしたちの無茶な要望を聞いて短時間で効率の良いスケジュールを組んでくれ、さすがといったところ。車内でのおしゃべりも軽快で母とも盛り上がっていた。この人にとって観光ガイドは天職だろうなと思っていたら、終盤に雲行きが怪しくなった。

 

 

一日の終わり、もうすぐ予定の時間が来るギリギリで土産物店に入った。

土産をどこで買うかは特に決めておらず、気になった店で買えばいいと思っていたのだが、約束の時間まであとわずか。土産物店がたくさんあるというスポットに行ったところで、魅力的な店を探す時間もなく、ガイドについていくしかない状況だった。

 

 

「ここがいいですよ」と言われて入ると、女性店主が「さあさあ、お姉さんたちどうぞ」とこれまた堪能な日本語で奥の席へと通された。なんで土産物店で椅子に座らされるのか、意味がわからないけど、時間もない中、知らない土地にきて思考回路にも余裕がない。一人で行動するときは警戒心が強いが、今回は人任せの部分も大きかったこともあって、無防備だった。

 

 

 

そこではじまったのは韓国海苔の営業トーク

 

 

こなれた感じの弾丸営業トークに戸惑いながらも、空気を読んでしまうお人よし日本人のわたしたち。不意打ちだったのもあって「はあ」「そうなんですか」などと合わせてしまった。

 

 

2種類の海苔だけやたら勧められたのだが、店員の後ろにはものすごい種類がある。「ほかの海苔は? 後ろのとか」と聞くと、「フレーバーがついてるけど、やめておいた方がいい。ニンニク風味とかいらないでしょ?」と速攻で却下されてしまった。

 

 

 

「何十種類とあるように見えるけど、全部そうなのか?」とか「じゃあなんで置いてるの?」という疑問がすぐ浮かんだが、この手のタイプはダメだ。その場しのぎでツッコミどころ満載のトークをするのは日本人でも多いが、まともな会話をしたくても徒労に終わることが多い。

 

 

次に勧められたのは化粧品。わたしはそもそも化粧品へのこだわりが薄いので、韓国コスメが日本で人気なのは知っていても、買いたいと思ったこともない。買うにしても、初めて行った国の土産物店で初めて知ったブランドなんて絶対買わない。

 

 

店主は、母や叔母、わたしのシワがどうのこうのと言ってきて「毎日使うといいですよ」と美容化粧品をすすめてきた。こちらから相談したならまだしも、頼んでもないのに人の容姿に勝手にケチをつけるなんて失礼きわまりない。と後でめちゃくちゃムカついたが、その時は「はあ」と流しながら聞いていた。いつの間にかガイドも横に座って「わたしも使っている」という。

 

 

そこでやっと気づいた。「ああ、グルだったのね」と。いや、最初から何となく気づいていたが、これが決定的な瞬間だった。土産物店と協定ができていて、ぼったくり商品を売るとガイドもマージンをもらえるのだろう。

 

 

営業トークが一通り終わり、あとは私たちが買うだけの段階になったが、3人とも何ともいえない空気になった。わたしは、年配者ふたりに任せたらいいか? わたしだったらどこに落としどころをつけようか? などと頭を働かせていた。

 

 

沈黙するわたしたちの様子を見て少しマズイと思ったのか、ガイドは「無理に買わせようとしないでね」と店主にやんわり言っていた。

 

 

わたしが年配者ふたりの発言を待っていると、母が弱弱しい顔で「……どうしよう?」とすがるような目線を投げてきた。「あ、こりゃだめだ」と悟ったわたしは、「1つ買えばいいんじゃない?」といった。ぼったくりだとしても別の店に行く時間など残されていないし、高くて困るほどの金額でもないのだから1つ買ってカタをつけたらいい。

 

 

と思いきや、二人ともそれなりの量を買って驚いた。まあ、他に選択肢がないならここで買うしかないし、わたしと違ってお土産を配る人数も多いから仕方ないのかもしれない。助け舟を出したつもりだったが、二人には必要なかったらしい。

 

 

それならそれでいいですけどね、と思いながら店を後にし、間もなく観光タイムを終えた。ラストは良い雰囲気で別れたが、どうしても土産物店のことは引っかかった。

 

 

個人的に気になったので海苔と化粧品の定価を調べてみたところ、海苔は韓国語検索もして会社も特定したけれど、パッケージで同じものがない。きっと観光客向けにつくったOEMなのだろう。内容量もびっくりするほど少なかったし、通常の何倍もしそうな金額だった。

 

 

化粧品は韓国の人気ブランドの「パクリ商品」だった。韓国のブランドなんて知らないのだが、本家の方は韓国で大ヒットして日本でも販売されているとのことだから、まあまあ売れていることは理解できた。

一方の土産物店のパクリ商品のホームページを見ると、10代後半から20代前半くらいの若者向け国内限定ブランドっぽかった。品質もそれなりでパクリながら悪いものではなさそうだったが、メーカーの公式通販サイトで半額以下で売られていた。今回の土産物店ではほぼ定価で売っていたが、公式サイトでこれなのだから、店頭価格はもっと安いだろう。

 

 

 

母と叔母にそれを伝えると、母は「だまされた!」とわかりやすく悔しがった。叔母は「へーそうなんだ?」くらいのもので、別に値段のことなど気にせず満足している様子。二人の反応が対照的で興味深かった。品質と値段に納得しているのなら、叔母のように満足するものだろう。母はそうじゃなかったってこと。

 

 

わたしはといえば、「時間さえあれば別の行動をしたのに」とは思うが、経験にお金を払ったと思えば悪くなかった。何事もなく平穏に帰ってくるより話のネタにもなる。実際、一番印象的な出来事だった。

 

 

ただ、「ガイドさん、ただの商売人だったな」とガッカリした。平和ボケした日本人的発想だろうなとはわかっているが。よく考えると、序盤から土産物店への誘導を仕込んでいた。雑談の中で、オススメの土産物やら、さりげなく年齢や美容の話をしていた。しかもわたしの年齢を「お姉さん、〇〇歳?」と10歳も上に言われて、そんな上に見られたことないんだけど、と一瞬むかついたことも思い出した(笑)

もしかしたら、そんなつもりではなかったかもしれないが、いったん信用できなくなると、あれもこれもワザとか? となる。

 

 

ただ、店主に「ムリヤリ買わせないでね」と言った時の表情で、ほんの少しだけ彼女の良心を見た気がした。

 

 

 

実は、観光がスタートする前に、「今日一日よろしくお願いします」ということで、こちらから日本のお土産をプレゼントしていた。大したものではないが、韓国の人は何をあげたら喜んでくれるかな? といろいろ考え、母と叔母は観光よりもそっちを気にしていたくらい。彼女もドライバーさんもすごく喜んでくれて、「こんなお土産をくれる人なんて、ほとんどいませんよ」と言ってくれたのに。

「お土産でマージン稼ぐなら、お土産なんていらなかったじゃん。アホだね、わたしたち」と空しい気分になった。

 

 

 

帰国後、韓国に詳しい母の知り合い複数人によると、典型的な「不慣れな日本人観光客相手の、土産物店のよくある話」ということで「やられたね!」と笑われたらしい。だろうねえ。

 

 

 

まあ、金額も大したことはないし怖い目に合ったわけでもないから、笑い話ではある。しかし、ほんの少し嫌な影響が残った。

 

 

韓国のあとに国内旅行もして、その時も観光タクシーを利用した。

 

ドライバーはわたしからするとかなり好印象だったのだが、今度は逆に、母と叔母が「あの人、わざとあそこに行ったんじゃない? あの店とマージンもらう約束してるんじゃない?」と疑っていた。どちらが正しいかは本人に聞かないと分からないが、わたしには作為的な行動に見えなかった。わたしが根拠を示して説明したり、さらに後ほど親切な行動をしてくれたこともあったので、最終的には二人も「今回は良い人だったんだね」ということで意見が一致した。

 

 

韓国ではわたしほど疑っていなかった二人が、わたしの見解を聞いたことで「ガイドは、客を利用するものだ」という考えが植え付けられてしまったのかと思うと、残念だった。普段、めったなことで人を疑わない人間が、一度猜疑心を知ると「そういうものだ」と逆転してしまう。

特に母は「韓国なんて二度と行かない」といった。半分冗談とはいえ、母にとってはショックだったのだ。

 

 

海外にいけばこんな話は通常運転みたいなものであり、大した事件でもなければ、それ以外はいい思い出だった。なのに、久しぶりの海外旅行だった母にとっては「騙された」ということだけが大きな事実として残ってしまった。こういうことに耐性がない母だと分かっていて、わたしも余計なことを言って煽るべきではなかったなと反省したが。

 

 

わたしが過去、ほかの国に行ったときの似たようなケースでは、わかりやすいぼったくりだったので、買うにしても断るにしても何も思わなかった。優しいフリをした中途半端なウソが、後々長らく響くほどに信頼を壊す。骨折するよりヒビが入る方が治りにくい、みたいなものだろうか。

 

 

あのガイドも、別に悪い人じゃないはず。もはや常習化しているであろう行動だったし、日ごろ案内している日本人観光客は、きっと何も疑問に思わない人の方が多いのだろう。あの時、一瞬だけ見えた良心が、これをきっかけにもう少し顔を出してくれたらいいなと思う。

 

 

 

ちなみに、韓国のドライバーさんは素朴なおじさんで、日本語は全く通じなかったが、お土産をめちゃくちゃ喜んでくれて、一瞬で食べきって、おそらく韓国語で「おいしかった」と何回も伝えてくれた。また、朗らかな様子で韓国語でいろいろと名所の説明をしてくれた。何を言っているのかまったく理解できないのだが、いい人だということだけは分かった。この人は正規料金で働いているんだろう、裏表のない正直さがにじみ出ていた。

たぶん、母は海苔の思い出が強烈すぎて、このおじさんのことも忘れてる(笑)

 

 

 

 

色々思うことはあったが、わたしにとっては、この一件はハプニングとしていい思い出になった。

 

 

母は帰国してから「韓国海苔のことを思い出すと悔しくて眠れない」といっていたが、いつも気持ちよさそうに寝ている。眠っている横で「海苔」というワードを出すと反応するかな? と思って、「海苔、海苔、海苔」と連呼するのを何回か試したが、ピクリとも動かなかった。ということは、たいしたトラウマではないだろうか。

母にそう告げると「しょうもないことをするな」と怒っていた。

 

 



 

久々帰国の兄と晩ごはん

海外在住の兄が出張で帰ってきた。

 

 

一日休みを利用して買い物に行くというので何を買うのかと思いきや、日本のお菓子だって。現地では日本のお菓子がなく、あったとしても高いので、帰国ついでにボストンバッグいっぱいのお菓子を買うらしい。

 

 

 

 

先にネットで買ってうちに届くようにしてくれたら、わざわざ買い物にでなくてもいいんじゃない? というと、「ネットは高いからダメ」なのだと。地元スーパーかドンキに行くらしい。わたしの1万倍くらいお金持ちのくせに、ハートは庶民の兄。学生の頃に朝イチでスーパーの特売チラシを見ていたころから変わらない(買い物に行くわけでもないのに)。まあ、使うところでは使うが、倹約するところはとことん倹約するってのは、良いことではある。

 

 

久々の帰国なので、「家族でどこか食べに行く?」と誘われたが、うちで食べようよ、と断った。下手な店よりわたしの料理の方がおいしい自信があるし、外に出ると疲れるので、好きなお酒を買って家でくつろぐ方がいい。

 

 

お酒に合うものを、と考えたメニューは、えびしゅうまい、アンチョビのポテサラ、焼きナス、アボガドのタルタルサラダ、レタスとカリカリじゃこのさっぱりサラダ。エビシウマイには干し貝柱と殻付きエビを使って贅沢に、焼きナスはいましがた庭で収穫したものを使用。

 

 

 

 

兄はあっという間に平らげ、わたしも母もほぼ手を付けるヒマがなかったおかずもあったほど。ちょっとは残しとけよなと思いつつ、作り手として悪い気はしなかった。

 

 

兄が来る前にはスイートポテトをチョコでコーティングしたお菓子も作っていたら、それもちょこちょこつまんでいた。翌日には兄家族のプレゼントにクッキー2種類も焼いた。

 

 

 

 

兄が発つ日の昼食はチャーハン。具はベーコンと長ネギ、ニンジンに卵。味付けは、鳥ガラスープの素、オイスターソース、塩コショウ、隠し味は少量のナンプラーと醤油で。チャーハンは学生時代にはまったのを機に得意になった料理のひとつで、超高温で一気に仕上げるのがコツ。

 

 

今回はいつになく上手にできて我ながら感動した。新米を使ったおかげか、謎の甘味もあっておいしく、兄も「どうやって味付けしたの?」とおかわりするくらい満足してくれた。

 

 

おしゃべりな兄は、帰ってくるたび、現地の生活について自慢なんだかよく分からない話をしてくる。その中で会社の福利厚生にふくまれている軽食やランチの話がある。社内にあるカフェテリアには専任のスタッフがいたり、軽食もランチも内容がびっくりするくらい充実しているとか、とにかく贅沢なことは伝わってくる。

 

確かに、自分の会社勤めをしていたころを思い出すと、うらやましいなと思うところはあるが、いまの生活をしていると、「そういう世界もあるのねえ。すごいねー」くらいにしか思わない。だって、うちの食生活の方がずっと豊かだもの。

 

 

兄がボストンバッグいっぱいに買ったメーカーのお菓子も、うちでは全く買わない。なぜならわたしが作るから。人からもらえばたまに食べるけど、気づいたら「これに似たの作れるかな」と考えている。生菓子はたまにしか作らないので、母が買ってくるけども。

 

 

わたしよりずっと優雅な生活をしている兄より、少なくとも食べているものはわたしの方が自由で豊かだった。ここでは詳しく書かないけれど、見ている景色も時間の過ごし方も、それほど羨ましいわけでもなく、今のわたしの環境は悪くないと思った(改善の余地は大いにあるけど)。兄のような生活は未経験なので、できるものなら体験する価値はあるが、すぐに飽きるだろう。

 

 

もちろん、それはわたしがそう感じるのであって、兄は自分の生活に満足している。家族を養い世界を飛び回るサラリーマンでもある兄と、フラフラしているわたしとは全く考え方も違う。いくら食生活が豊かでも、兄はわたしのことなどみじんもうらやましくないだろう。

 

 

もし、わたしが夫についていって海外に住む妻なら、どうするだろう?

 

 

きっと、もっとマニアックな場所に行きたいし現地の友達を作りたい。そして文化や料理を知りたいし、自分でも試したい。そして日本の文化や食事も試してもらって感想を聞きたい。現地料理とわたしの知恵を融合させた新しいレシピを開発するに違いない。そうだ、お菓子の作り方も教えてもらわねば。そしたら絶対楽しいだろうな!

 

 

結局、今の場所にいようが、お金持ちになろうが変わらない。そういうもんだろうな。

 

 

兄はお菓子がパンパンに入ったボストンバッグを「めちゃくちゃ重い! これは大変だわ」とボヤきながらも、どこかうれしそうだった。お菓子と対面して喜ぶ姿でも想像しているのだろう。その隙間にわたしの手作りクッキーも詰めて「じゃ、いくわ!」と元気よく旅立っていった。

台風一過。

 

 

 

 

 

自力治療と、病院の思い出

歯医者に行く予定だったのだが、急な腹痛が起きて取りやめた。ここ数日、風邪で引きこもっていたので、久々の外出だと張り切って昨日から準備をしていたというのに。

 

 

今日の腹痛は、胃や腸というよりは子宮の収縮を感じる。いまは生理直後なのでタイミングとしておかしい。風邪がやっと治ったと思ったのにまだ全快ではないのか。

 

 

 

とりあえずお腹を温めて丸まっていたら、一時的な痛みはおさまった。でもこれはまた、ふとした拍子に来るだろうな、というのが感覚で分かった。今回は体調不良というよりは、リズムの乱れだろう。

 

 

いつもこんな感じで、基本的にわたしの医者はわたし。小さい痛みや病気なら、身体と相談して自力で対処する。

 

 

昔のわたしなら、どこか不調があるととりあえず検索した。一般的な西洋医療的観点もそうだし、東洋医学的なことも調べたし、近年はスピリチュアル的なことも。もっと昔なら、とりあえず病院に行っていただろう。

 

 

自力に頼るようになったきっかけは亡き父だった。父は若い頃から健康診断では何かしら数値がよろしくなかったようだが、若さと勢いで振り切っていたのだろう。60歳を過ぎた頃に大病をして、そこからはガタガタ。あっちもこっちも悪いし糖尿病予備軍だしで、「なぜこんなことになる?」と不思議だったわたしは、本やネットで勉強しまくった。

 

 

父は頑固で強情な性格だが、「先生」と呼ばれる人にはめっぽう弱く、西洋医学におんぶにだっこ、他力が過剰で自力がおろそか。東洋医学も受け入れがたいようだった。

 

 

父が拒否反応を示さない範囲で、自分の知っている知識や知恵を伝えてきたが、父は最後まで西洋医学に頼り切った。

 

 

そんな父を近くで観ながら勉強していたので、皮肉にも自分は身体の知識が身に付き、ある程度の確信を持てるようになった。父のおかげであり、一番尊い財産をもらったかもしれない。母もまた、父と同じく西洋医学信仰が強いが、父と違って健康体であり、父ほど頑固でもないので、じわじわとこっち側に洗脳している。

 

 

友人との会話で、こないだ高熱が出た時に自力で直したという話をすると「なぜそんなに頑張るの。医者に行きなよ」と驚かれたけど、原因と対処法が分かっているなら自力で十分だろう。もちろん、これはあくまで自分の話。家族や他人にまで口出しはしない。

 

 

小さい症状を自分で対処するのは、わたしにとって実験だ。やってみてダメなら医者に行って、治ったら行かずにすんでラッキー。これを繰り返しているうちに、「これは自力では無理かもしれない」ということもわかる。

 

インフルになった際、熱が上がったり下がったりして不安定だったので、医者に行ったことがある。下がっているときに行くと、「たぶん違うと思いますけど、一応インフル検査しますね」とやったらインフルで医者もびっくりしていた。

インフルだと分かればもうあとはいい。抗生物質かなんかをもらって帰ったが、飲まずに寝ていたらまた上がった。安静にしていればよいので、しばし苦しみに耐え3日ほどで治った。

 


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疲れすぎて倒れ、ブロックで頭を切ったときも病院にいった。

とめどなく血が噴き出すわ止まらんわで、顔面の半分血まみれというホラー映画ばりのビジュアルだったのだが、止まればいいだけの話。ケガの治療という意味では医者は不要だったのだが、目の近くで痕が残ったら嫌だったので頼ることにした。

 

 

しかしその日は、あいにくの祝日。調べてみるも、空いているクリニックで形成外科やそれに類するところがない。どこがいいかなと迷ったので、生まれて初めて#7119に電話してみた。すると「それは大変。すぐ見てもらった方がいい」ということで、近くの大きい脳外科を紹介された。電話の相手は、切り傷よりも脳の心配をしてくれたらしい。

 

大げさだなと思ったが、とりあえず傷の処置をしてほしかったので行ったら、CTを撮られた。当直の若い医師たちが対応してくれて、たしか彼らも「たぶん、何ともないとは思いますが、念のため取っときましょか」くらいのノリだったと思う。全然いらないけど、CTなんてとったことないからやってみよか。これも経験のひとつね。と身をゆだねてみたら、2万円近くしてびっくりした。たっか!

 

……まあいいわ。写真も撮れる新感覚アトラクションなのだ、これは(USJでも2回いける額だけどな!)。自分の輪切りの脳みそを見て、へええ、という新鮮な驚きもいただいた。わたしの目ん玉は丸く、どこぞの本で見た人間の中身と同じだった。どんなに化粧を頑張ったところで、切り刻めばわたしもただの動物か。

 

 

 

まあ、ここぞというときは病院に行っているが、その回数が極端に減ったのは、決定的な理由がある。

 

 

10年ほど前の定期健診の乳がん検診で引っかかったときのこと。

精密検査を受けるように通知が来たので、偶然、近くにあった乳がんの名医がいるという病院に行った。その病院の待合室の空気があまりによどんでいた。特に暗いとか汚いとかでもなかったと思うが、わたしには黄緑色がかった、なんとなく不穏な空気が漂ってる印象しかない。オーラとかまったく見えないので、記憶にフィルターがかかっているのだと思う。

 

 

名医の病院ということで、待合室はいっぱい。わたしが2回ほどいった時は検査だったのだが、乳房にぶっとい針を刺されたり、板でつぶされたりと、あまりの痛みに泣きそうな顔をしたのだと思う。「syunさん! 大丈夫ですか!」と看護師さんが心配してくれた。たぶん診察室から漏れ出てくる声が聞こえたのだろう。終わって出たら、みんな一斉にこっちを見てきた。終わった後の痛みはなかったのだが、みなさんの顔が悲しそうだったり不安そうだったりでこっちにも伝播してくるような変な感じ。「ここに来るの、良くない気がする」と思って通うのをやめた。

 

 

 

その後、別の病院に行くこともない。なんとなく、これは良性のやつだろう、と思ったので心配もしなかった。10年たってもピンピンしているので、まあ大丈夫だと思う。分からんけど。

 

 

それ以降、めったなことじゃ病院には行かない。父のお見舞いで大病院に行くことはあったが、大きい場所、とくに急性期では必ずしも悲壮感は漂っておらず、一時的に通うには悪くなかった。

 

 

かかりつけ医ってのがいてもいいのだとは思うが、いまの時代、近所だからといって安易に決めるものでもない気がする。「とりあえずお薬」ではなく、時には「ナメときゃ治る」っていう厳しさがあるくらいがいい。

 

わたしみたいなタイプは、日ごろから整体などでメンテナンスして予防医学に励む人も多いだろうが、それもまた相性。いい人に当たれば長く付き合えるかもしれない。ただ、何をするにもいいものは金額がそこそこかかる。古き良き時代のドラマに出てきそうな、近所で気心知れて気安く頼める値段で、なんてものはわたしの周りにほぼない。あったけど絶滅寸前だ。

 

 

いまはサービス体制バッチリのチェーン店か、いい店だけどお高いか。人情派の先生がいたら人気殺到で予約が取れないか。こんな時代で稀有な他力を探すより、とりあえずは自力に頼る方が早い。基本は自力だったら、いざ他力に頼るときに変なケチ根性が出にくいし、かといって何もかもゆだねすぎることもなくなる。

 

 

そういえば、歯医者も定期健診はどこまで必要なんだろうか。ここ数年、3か月に1回は通っているが、絶対に行かなきゃいけないものでもないだろうな。

 

 

 

 

真面目で優秀で報われない女たち

わたしの周りにはこういう人が多い。自分で言うのもなんだけど、わたしもこっちのタイプ。でも「アホらし」と気づいたので止めた。

 

 

 

 

真面目で優秀でたいていのことは自分でできちゃう。性格だって悪くない。よく気がつくし、しっかり者。でも、あまり報われてないんだよね。

 

 

 

A子の場合

 

サークルの幹部にちょっとした仕事を頼まれた。不慣れなことだったけれど、彼女なりにがんばって仕上げた。すると、幹事はA子の仕事が想像以上に良かったことに驚いたようだった。後で知ったのだが、幹部は仕事のための報酬を別途もらっていたらしい。もちろんA子はもらっていない。

 

 

 

B子の場合

 

職場でどんどん人が辞めており、そのしわ寄せがすべて自分にきている(B子が原因ではない)。自分がやらざるを得なくて、本来なら早く帰れるはずが、忙しすぎて休みも取れない。

 

 

 

とにかく、二人ともよくできて頑張っちゃう人なのだ。頑張ればできることを「できません」と断ることはできない真面目な人。しかし、たいてい損をするのは、こっちのタイプなんだな。仕事も遅くて無理しない人が何の苦労もせず、自分と同じ待遇や報酬を受けていたりする。

 

 

でも、「自分の努力や苦しみをわかってよ」っていうのは通用しない。わたしは頑張ってる! と思っていても、みんなそれなりに頑張っているよ、と返されるだけ。

 

 

優秀な上司なら、部下の頑張りや力量を推しはかることはできるだろう。そんな人がいればラッキーだけど、だからといって何かしら対処してくれるかはまた別のはなし。上司も同じように耐えているかもしれないし。

 

 

だから、彼女たちのような優秀な頑張りやさんは損をしがち。

 

 

とはいえ、同情ばかりもできない。

 

 


彼女たちに共通していることは、第1に「今の状況は厳しいので、ちょっと考えてもらえませんか」と直談判することなく、「今さえ耐えれば終わるはず」と飲み込んでしまうこと。右も左も分からない初回はそれでもいいけど、2回、3回と続けば「あれ? 変だぞ」と必ず気づくはず。

 

 

そして第2に、そのような状況になってもなお、「何も言わなくても、見てればわかるでしょ」と相変わらず受け身姿勢でいる。

 



きっと、A子やB子が上司の立場なら、大変そうな部下を見ればすぐ気づけるはず。でも、そういう人ばかりじゃないんだよね。

 



ちゃんと意見を言わないのであれば、それは今の状況にOKしていることとみなされる。キツイことをいうと、彼女たちが我慢することは、前例を作ることにもなり、悪習に加担しているともいえる。

 

 

世の中には、できるくせに「できない」という人もいる。”こっち側”からすると、余裕でできそうなことができない人もいる。

 

 

そういう人間の心理が理解できない”こっち側”は、本当に信じられないのだが、”あっち側”の人間は別に不義理で言っているわけでもない。

 

 

 

だから”こっち側”も「できない」と言わない限り、「この人はできるんだな」「別に嫌じゃないんだな」って思われてしまう。A子やB子のような”こっち側”からすると、「そんなのありえない(怒)」という。気持ちはわかるが、認めたくないからといって認めないままでいると、何も変わらない。一応、わたしも”こっち側”なので(笑)そんなヤツを見るとムカつくのだが、でもいるんだよ。「その程度のこと、自力でやれ」「3分でできるだろ」っていうことができない人。

 

 

 

そして同時にA子やB子、わたしのような”こっち側”は、いい加減な(に見える)”あっち側”には絶対になりたくない。できることはやるべき、さぼるなんてもってのほか。たとえ「べつに”あっち側”になってもいいよ」と言われたところで、願い下げなのだ。自分にガッカリしたくないから。

 

 

そういう意味では「やりたくてやってる」と思われても仕方ない面もある。「わかってくれない」なんていうのはこっちの都合でしかなく、相手を変えようとするのは不毛なのだ。

 

 

 

結局、すべては自分次第。「あたしはこんなに頑張ってるのに報われない!」なんてグチが出てきたら、見直す時期がきたってこと。自分がストレスなく過ごせる環境を整える努力をするか、その場を離れるか。ずっとグチを言っていたらいろいろと歪んできて美容にも良くない。

 

 

 

仕事なんてできなくても、ニコニコしている人が好かれたりするらしい。そういうポジションをうらやましいと思うけれど、そんなこと、狙ってできるもんじゃない(できる人もいるだろうけど)。”こっち側”の女たちはきっと同じだと思う。ただし、自分の居心地のよい環境にいれば、しかめっ面は減るだろうし笑顔は増えるだろう。だから自分のための環境づくりを、妥協せず探していくことなんだろうと思う。

 

 

 

 

 

”自然派”の流行に違和感

ツイッターでフォローしている人たちの界隈で、自然派洗剤が流行っているのを見て、違和感を抱き、「自然派」とはなんぞや? と考えさせられた。

 

 

自然派界隈でいま流行りの洗剤があるらしく、その効果が良いとのことで、みんなが口々に褒めそやしている。確かに良さそうなものではあったが、この現象にものすごい違和感が。

 

 

そもそも、自然派の商品って、なかったところから突然出てくるものか? わたしの自然派商品のイメージは、現代では失われてしまったり、作るのが難しくなってしまったが、元はあった昔の知恵をふたたび掘り起こしたもの。そういう商品に触れるうちに、消費者である自分の意識や行動も変わっていき、企業もより無理なく無駄のない自然派商品を生み出す、という循環が起きるものと思っている。

 

 

このたび流行ってる商品は、特定の会社の特定の技術でしか作られないらしい。それって自然か? いや、とにかく”自然派推し”っぽい人たちが飛びつく現象が気持ち悪いのであって、商品に罪はないんだけど。

 

 

ちまたでは、ウソか本当か分からないけれど、一般庶民には隠されていたものすごい技術というのがあるらしく、今回の洗剤がそういう類である可能性は無きにしも非ず。だとしたら、画期的な商品なのかもしれない。

 

 

ただ、そういう時に思うのは、地球に優しくて効果も抜群な新技術ができたら、それさえあればOKということにならないか? ってこと。どれだけ汚してもいいし、どれだけ大量に消費しようとも、地球にやさしいのだったらいいでしょ? っていう人が出てくるのではないだろうか。

 

 

人や環境にとって良いものを作りたい、という企業理念は本当に素晴らしい。しかし同時に使う側のリテラシーも同じくらい高くなきゃ、無意味どころか逆効果だ。ノーベル賞のノーベルさんは、人々のために爆弾を作ったのに、それが戦争に使われることになってガックリきたのがキッカケで、賞を作ったとかいうよね。

 

 

だからこそ、自然派推しのくせに安易に流行に飛びついているのが嫌だなと思った。単に自然派商品を使うのを自然派というなら、ただのミーハーだろう。もちろん、そういう人がいてもいいし、人の勝手なのは百も承知。ただ、わたしのフォローしている人たちは、自分の頭で考えてそうな、ミーハーっぽくない人たちだったのに、なんでこの商品だけはみんな右向け右なのか。新手のステマ? と思うくらい。

 

 

究極の自然派は、小さい範囲で循環させていくことだと思っている。ただ、現代的な生活の中でそれは難しいし、原始時代まで戻りたいとも思えないので、ある程度、外の力に頼るのは仕方ない。そこで大事なのは、何を使うかではなく、使う側の意識の問題だ。

 

 

たとえ合成洗剤を使っていても、普段から清潔にしていて使用量が少ないなら、自然環境にとって良い行動だし、自然派洗剤をジャブジャブ使うだけなら、意外と環境破壊しているかもしれない。自然に還りやすい素材というだけで、環境に変化をもたらすには違いないのだから。

 

 

自分が楽しく努力できる範囲ですべきことをしていたら、少しずつでも自分の望む暮らしに近づくはずで、それは自然派生活も同じこと。まあ、今回の流行に乗っている人たちも、楽しくてやってるのならいいのかもしれないけどね。ケチつけまくったけど、わたしもその洗剤をちゃっかり使っている可能性もあるよ。そう、ある(笑) でもやっぱり、「環境に良くて身体にも害がない。なにかと効果が高くてコスパもいい♪」ってのを見ると、ウソつけ! っていいたくなる。どっかマイナスもあるやろ。映画レビューで☆5しかついてないのを信用しないタイプです。

 

 

いいんですよ別に、何を使おうとも。自分も人のこと言えた義理じゃない。でも気をつけなきゃな、と思わせてくれた出来事でした。