おやつく後記

日常のことなど思いつき

体調不良はチャンス

ここ数日、体調が悪い。コロナかもしれないが、検査していないので分からない。わたしは勤め人ではないので、重症化しない限りは家でおとなしく息をひそめていればいいと思っている。

 

 

今回の風邪は、喉の痛みから始まり、熱は37度前半と微熱程度。次第に鼻水と頭痛も出てきて、2日目には36度台まで落ちたが、謎の吐き気ももよおすようになった。

 

 

いつものように38度くらいまでガっと上がると、その影響でいろいろな症状は出るが、辛い時期を過ぎれば元通り。しかし、今回は中途半端な熱で下がってしまい、変な症状が残っているのが気持ち悪い。

 

 

体調が悪い時は原因を考えるようにしていて、当たっていなくても、自分の中で納得感があればOKとしている。そしたら、自分の身体の法則みたいなのがつかめてくる。

 

 

ということで最近の出来事を振り返ってみよう。

 

 

大きな変化といえば、海外旅行に行ったことと、甥っ子とはしゃぎまわったこと。

 

 

半ヒキコモリのわたしが海外に行くというのは、なかなかのインパクトだった。しかも生理中だったので、道中はかなりしんどく、半分以上が体調不良だった。楽しかったのだが辛い時間が地獄すぎて、また行こうねと言われて素直に「そうだね」と返事ができなかったくらい。

 

 

わたしは環境の変化に敏感なので、体調不良や違和感が出やすい。

 

 

たとえば、いつも乗っている私鉄ではなく、久しぶりにJRに乗ったら気分が悪くなったり、イベントなどで多くの人がいるところで過ごすと吐いたり。仕事でたくさんの人としゃべらなければいけなかったときは、仕事終わりでフラフラになり完全回復するまでに3日ほどかかったり。

 

昔はそこまでじゃなかったのだが、体調管理に気を付けるようになってから顕著になった。

 

 

てなわけで、基本的に旅行は苦手なのだが、完全に自分のペースだったら比較的マシな傾向がある。しかし今回は同行メンバーに合わせたので、体調のコントロールが難しかった。ただ、休憩時間はそれなりにとれたので、ゆっくり過ごしたり寝ることでリセットできた。だから1週間以上たって中途半端な微熱というのはあまり解せない。

 

 

甥っ子たちとはしゃぎまわった時は、特に今回は思いっきり走ったので身体はバキバキになったが、だからといって熱が出るようなことでもない。ということで、これも却下。

 

 

とすれば、発熱した前日に街に出たことだろうか。いつも通りの場所にいって、いつも通りの行動をしただけだったのだが、多くの人が集まる場所なので、ごくまれに、変なものをもらってくることはある。免疫が下がっていた可能性もあるが、結局のところ、ただ単にいまの流行にちゃんと乗っただけじゃないかなと思う。

 

 

身体が敏感になった時期から、流行り病にもかかりやすくなっている気がする。

 

 

コロナが流行する直前、謎に急な発熱が出たのだが、かなり後になってうちの地域がで流行していたということを知った。わたしはよく街に出かけるので、その時にうつされたのだろう。

 

 

昨年は、普段は行かない場所に訪れたところコロナになった。密閉空間に長時間いたのでうつされてもおかしくない状況だった。同行していたもう一人も発症したのだが、海外から一時帰国中の知り合い家族はそろって元気だった、というのがちょっと謎でおもしろい。

 

 

ウイルスだとか流行り病というのは、地球上のどこかで謎の虫が大量発生したり、異常気象になることと同じ自然現象だと思っている。大きくなった歪みを調整する、地球の風邪みたいなもの。地球が身体ならばわたしはどこかの細胞。体内で異常が起きれば白血球が動員され、それに伴って別の細胞も影響を受ける。細胞たちは根本原因は知らなくても、自分の身に異変が起こっていることだけ実感できる、というイメージ。

 

 

ウイルスが発生したときにわたしが感染して発症するかどうかは、時々の体調にもよるだろう。でも多くの人がかかる病気だとすれば、普通の体調では逃れられないこともある。

 

ミクロ視点だと、「体調管理が悪いから」「対策してないから」という理由付けができるかもしれないけど、マクロ視点だと大きな流れのひとつ、ということ。感染予防だって、やらないよりはやった方がいいというだけで、一定数の人が感染するまで終わらないんじゃないかと思う。

 

 

自己管理の及ばないところで起きる体調不良は、いまの自分には理解できずとも何かしら意味があるはず。わたしの好きな野口整体では風邪はアップグレードの一種といっていた。某物理学者(?)もウィルス感染と人間の進化は関係があるといっていて、理由については理解できなかったがおもしろそうだなと思った。

 

 

ところで、今回、母に「風邪をひいたかも」というと、「勘弁してよ」といわれたのがものすごく不本意だった。悪意でなく軽く言っただけなので不快感はないのだが、風邪=悪いもの、という構図が出来上がってしまっていることを実感した。これ多くの人がしている勘違いだと思う。

 

 

風邪をひきやすいのは、本当に免疫が低い場合と、身体が敏感な場合の2種類ある。わたしは自称・後者。100歳越えでも姿勢もよくボケてもなかった祖父もしょっちゅう風邪をひいていた。たしか野口整体で、「めったに風邪をひかない人の方が大病になったりする」というのがあったと思う。

 

マメに風邪をひくのは、家の修理をこまめにしているようなもので、まったく風邪をひかずに大病になるのは、普段、修理をせずため込んだ傷みが限界を超え、突然家が崩れるようなもの。すぐに身体が反応するというのは、時に良いことであり、風邪をまったくひかないのはヤバイ可能性もあるってこと。この考えがもっと広まればいいのに。

 

 

風邪や体調不良は、自己管理が原因のときもあれば不可抗力もある。それを感知するセンサは元来、すべての人に備わっているのだ。

 

自分に原因がある場合は「次はこうしよう」っていう反省になるし、そうでない場合は「なにが起こるのだろう?」とワクワクする。そう、体調不良は常にチャンスなのだ。ピンチはチャンスっていうもんね。

 

 

 

 

年甲斐もなく全力で遊ぶ

無駄に体力を消耗して、バカみたいに豪快に笑って。

 

 

こないだ、甥っ子と海に行き砂浜で遊びまくった。まわりには家族連れでBBQを楽しんでいる人、小さい子どもが遊ぶのを見守っている若い夫婦、釣りをしている人がいた。夏の海水浴でもあるまいし、それぞれ大人の遊びを大人として楽しんでいた。

 

 

 

そんな中、わたしは子どもと一緒に、足がつりそうになるのもかまわず全速力で重たい砂浜を走り回り、全身砂まみれになりながら”棒倒し”に熱狂した。

 

 

明日、全身筋肉痛で身体が動かないかもしれない。駐車場で過ごしている兄に、甥っ子たちを砂まみれにしたことを怒られるかもしれない。周りの大人たちに「みっともない」と思われるかもしれない。ハードコンタクトの目に砂が入って危なかった。でもいいやと。

 

 

海には入らなかったけど、小さな水しぶきを浴びながら、身体全体で遊んで、子どもたちと真剣勝負をしていたら、くだらないことでめちゃくちゃ笑った。子どもたちも、家で過ごす時には見られない顔だった気がする。勉強のことなんて忘れて、ただ目の前のことに集中するのがどれだけ楽しいか。普段はゲームばっかりしているけれど、外で自由に遊ぶ方が本当は楽しいってことを身体は知っている。

 

 

大人として見守るべきときは見守ればいいけれど、一緒に遊ぼうよと言われて元気があったら、真剣に遊んでやる。それは適当に生きているわたしだからできること。真面目で勤勉な兄や義姉にはできない、わたしの役割。

 

 

喉がカラカラになって、甥っこたちと自販機を探し回った。

 

あまりに喉が渇いていたので、ビールを飲むかのごとく炭酸をカーっと流し込み、短時間で空にした。それを見た甥っ子弟がぐびぐび飲む。

 

すると兄が弟を「一気に飲んじゃだめだよ!」としかったのだが、「だってsyunちゃんが飲んでるんだもん」とわたしの空のペットボトルを指す弟。「え?」と驚く兄。「だって喉渇いてるんだもん(なんか悪いことしたような言い方だけど、悪くないんだけど)」とわたし。

 

そこですべてを理解した。普段、家ではジュースを一気飲みしてはいけないと言われているのだろう。なるほどね、子どもは大変ね。

 

わたしのおかげで(わたしのせいで?)、兄弟そろってすぐに飲み干した。

 

そっか、いつもは我慢してるんだな。せっかくだから、家でできないことやっとけ。と、ダメ叔母は目を細めたのであった。

 

 

翌日、筋肉痛になった。

 

 

 

同窓会にはいかない。代わりに

会いたい人には、特別じゃない日でも、忙しくても、時間を作ってでも会いに行く。

 

 

同窓会に行ったのは20代前半まで。

 

 

 

わたしにとって同窓会とは、「同窓会」と名のつくイベントだけでなく、過去の友人や趣味、仕事の仲間で、一定期間以上過ぎたグループで会うなら同じ。共通の話題で盛り上がる間は良くても、そのうち近況報告のしあいっこから始まって、職場や家庭のグチ、うわさ話や世間話などで終わるような会になったら終了の合図だ。

 

合コンとか異業種交流会の場と考えることもできるけど、あまり興味がないし、行くとしたら同窓会なんて中途半端な場ではなく、もっと本気の場所を探す。

 

 

特別なイベントの時だけ誘われるような関係は、なくなっても困らない。会いたい相手なら、何でもない日でも、逆にめちゃくちゃ忙しい中でも時間を作って会いに行く。

 

 

わたしの場合、連絡したい友人は片手で足りるほど(男女関係なく会いたい人はいるけれど、既婚男性には気安く連絡できないので、友人と呼べるのは今のところ全員女性)。彼女たちは自立している人ばかりなので、向こうからもめったに連絡は来ないし、こっちからもしない。

 

少し前に、こっちが会いたいと思っても返信がなく、「もしや、切られた?」という人もいた。いま考えると、とっくに終わっていたはずの関係に、わたしがしがみついてしまった。終わるべき縁は時がきたら自然と終わるようにできている。流れる水をせき止めないように、人間関係も流れるままがいい。空いた席には別の誰かが入ってくるはず。

 

 

同窓会を頑なに拒絶しなくてもいいけど、行きたいと思えないうちは行かない。その時間を、行きたい場所に行き、会いたい人に会い、費やしたいことに時間を費やそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

批判するのは悪じゃない。けど

肯定する方が平和

 

 

 

 

わたしの性格なのだろう、つい誰かを批判したくなる。

そういう時はヒマなとき。なんにも動けていないとき。今まさに、そういう状況が続いている。

 

 

でもSNSなどで他人の批判を見ていると、「こうはなりたくないわ」と思う(笑)。世界は自分の鏡映しというから、ああ、あたしもこうなんだな、ってガックリする。けど気づけて良かったなと思う。

 

 

批判している人の中には「ごもっとも」って同意する部分もある。でも、同じ出来事に対して特定の人(意見)をターゲットにしているのを見ると、「そういう人もいるけど、違う人もいっぱいいるのにね」って反論したいときもある。なぜ、数ある中から敢えてその人をピックアップして怒ってるんだろう? って。

 

 

否定の反対は肯定でワンセット。ならば、否定に走るのではなく、肯定できる側の人(意見)をピックアップすればいい。そっちの方がずっと平和だ。

 

 

世の中にはそういう人もいる。批判や言い訳を公に出すことなく、自分が肯定するものだけに注力している。そんな彼や彼女もまた、批判される対象になったりするけれど、見ている側としてはすがすがしい。有名人ほど腹の立つこともあるだろうに、「批判しないし反応もしない」という強い意志を感じる。その姿勢だけで十分かっこいい。

 

 

わたしの場合、批判の先に自分の意見があるつもり。……だったんだけど、冷静にみると、先に批判したい対象に注目してしまっている。

 

 

それをわかった上でやっぱり批判したいならする。でも基本は平和を選ぼう。

 

 

 

※記事構成は、前記事で書いた吉本ばななさんの本を意識してみた。笑

 

 

 

 

 

簡潔でストレートなことばを書く

何気なく手にとった吉本ばななさんの本「小説家としての生き方」が面白かった。

 

 

 

 

 

好みの系統が違うので、ばななさんの小説はほぼ読んだことがなく、エッセイの方がまだなじみがあるくらい。だから、なぜこの本を借りようと思ったのか、自分でもよくわからない。でも読んでみて一気に身近に感じた。タイトルには「小説家としての」とあるけれど、内容としては「吉本ばななという一個人としての」という方が近い。魅力的な人だなと思うと同時に、わたしとも共通する考え方があってうれしくなった。

 

 

読み終わった後にふと思った。「小説家でこんな短文のエッセイって珍しくない?」と。文章のジャンルがよく分からないのだけど、エッセイよりも短くて、格言とその解説程度のもの。200字にも満たなそうな文章もある。

 

 

他業種やエッセイストならともかく、小説家がここまで短い文章を書くのは意外と見たことがない。

 

 

それで気づかされたのは、文章ってのは長文だから良いってもんじゃない、ってこと。記者時代は、同じ内容なら短いほど良いというのが当たり前だったのだが、すっかり忘れていた。ブログという場所で字数制限を気にしなくてよくなると、ダラダラ書くようになりがち。内容によってはやっぱり短い方がいい。

 

 

実はこのブログにも公開していない下書きのままの記事がたくさんある。ダラダラと長く、愚痴っぽく、言い訳がましいので、時間をおいて読み直すと我ながら「しょうもない」と思うものが多い。ウツウツとした気分の時に書くことが多いので仕方ないし、それはそれでいいんじゃない、とも思うのだけど、なんでもかんでも公にするのも気が引ける。

 

 

ただの一般人で読者も少ないからといって、自分を甘やかして冗長な文章を書いている限り変わらない。だから、読み手を意識しながら簡潔に、そして同時に読み手を意識せずにストレートなことばをつづりたいと思った。

 

 

 

 

 

 

この本のインタビュー動画をみたら、ばななさん、本の内容とまったく一緒のことをしゃべっていた。「このインタビュー内容を元に本を作ったの? どういうこと?」って混乱するほど内容が一致してるもんだから、何のためにこの動画を撮ったのか謎。

「続きが気になる人は本買ってね」ってことなのかな。わたしにはよく分かりませんでした。

 

 

www.youtube.com

 

 

 

 

その「場」は自分に合ってる?

小説を書くモチベーションが続かないので、仲間がいたら何か変わるかな? と思い、教室というのに行ってみた。習いに行くというより、仲間づくりが目的。

 

 



 

行ってみて、わたしが行く場所じゃないなと気づいた。長年通っている人がほとんどで、もう「場」が出来上がっていた。感想を言い合う場面では、けっこうきつめの言葉も飛び交い、「そんなこと言って大丈夫?」とヒヤヒヤ。終わってから、みんな長い付き合いと知り、そういうことか、と納得した次第。

 

 

頑張ったら入れるかなあ? と少し悩んだが、自問自答して即答できない時点で答えは決まっていた。「……無理せんとこか」。わたしは自分に甘い。

 

 

メンバーがほぼ古参となると、新しく入っていくのに、わたしはかなりの気合が必要だ。「ぜひこの先生に習いたい」という意思や「この雰囲気が好き」という思いはあるか? というとなかった。仕事など責任が生じる場なら頑張るが、趣味程度で「なんとなく興味があるし~」ではきつかった。

 

 

「仲間づくり」という目的を一番に考えたとしても、ピンとこなかった。よく考えてみれば、仲間づくりなんて人生でやったことなかった。これまでは、ほかに明確な目的があっていった場所で、出会った人たちと偶然仲間になっただけで、基本つるまない。趣味の習い事で仲間づくりを! なんて鼻息荒くすることに最初から無理がある。そう一匹オオカミでした。そんなわたしがなぜ、気の迷いを起こしたのかというと、行き詰っていたからだった。最初から目的を間違っていたということだ。

 

 

小説教室ってどこもこんなものなのか? と調べてみると、主催によって全然雰囲気は違うらしい。たとえば東京だと、主催が元編集長だとか、最前線で活躍する現役バリバリライターというのもいる。主催者の方向性や所属によって、そこに集う人たちも期待値が変わるだろう。

 

 

東京の小説家志望の人が、有名編集者の教室に通っているのを記したブログがあった。文面だけでは詳細は分からないので余白を想像したのだが、方法論を学ぶことよりも、小説家になりたい人間たちとそれを指導する先生が作り上げる「場」に身を置くことこそ、一番価値ありそうだ。

 

 

現役に近く、しかもクリエイターの集まる都心部に近い人ほど、目標に到達するための最新情報を持っているし、生徒もそれを目当てに実践する。周りはライバルであり仲間でもある。そんな場所にいたら、いいものを書きたい欲求も高まるだろう。だから、「〇〇教室から有名作家誕生」っていうのが立て続けに起こったりする。

 

(もちろん、すべての人がギラギラしてる訳ではないだろうが、人の集まるところには、目的ごとの教室の種類も多いはず)

 

 

昔、試しに行ったシナリオセンターでは、超有名脚本家の卒業生が多かった。学生時代から演劇やってました、という人でもない限り、シナリオを効率よく習うとしたら、当時は(いまも?)シナリオセンターくらいしか思いつかないわけで、本気の人が集まりやすい場所からはそりゃ出てくるだろう。

 

 

わたしはというと、ちょっと足を延ばせば地元より著名な教室が見つかるだろうが、そこまでする元気はない。つまり、その程度といえばその程度。でも、なんとか近場で一緒にやれる人はいないかなと常に考えている。

 

 

今のわたしは、たぶん、他人の作り上げた「場」にお邪魔するのはなかなか難しい。少し前までは、自分を馴染ませることに腐心していたが、それすら厳しくなってきた。よほど目的を共有できる人じゃないと無理で、だったら自分の場を作って広げていくしかない。いまのところまったく広がってないんだけど。自信をもって「ここはわたしの”場”である」といえるのは、ブログとインスタくらいだ。あと、自分の家? 小さい。小さすぎる。でも、あるだけマシか。

 

 

それにしても、文章教室のディスカッションで、みんなよくしゃべるのにびっくりした。わたしはしゃべりが下手だから文章表現が好き、というのもあったので「こんなにしゃべれる人が小説なんて書く必要ある?」ってさ。

 

 

ただの偏見とはわかってる。でもね、わたしも気心知れた人の前ではおしゃべりだけど、慣れるまでに時間がかかるタイプな上にあがり症なもので、ディスカッションとか死ぬほど嫌いなのよ。なのに、バリバリにディスカッションできて文章も書くなんて贅沢だなとうらやましかったの。

 

 

さて、次の「モチベ向上作戦」は何にしようかな。

 

 

 

 

 

働かないことは「宝のもちぐされ」?

エプロンを縫って母にプレゼント。その時に言われた一言で自分が無職であることについて考えました。ひとことでいうと……ただのグチ?

 

 

 

 

 

 

 

自作エプロンに満足

 

洋裁を習ったのは小学生のころ、ミシンの基本的な使い方は母に聞き、あとは家庭科の授業くらい。最近、なんとなくやりたくなって、独学ではじめた。

 

 

 

大人になると物事の道理が分かってくるので、初心者でも上達方法が格段に速い。洋裁も、基本に忠実に、丁寧にさえやれば初めてでもそれなりのものができる。「洋裁は裁断で8割以上が決定する」(正確な数字は忘れた)というのを見たので、とくに裁断には時間をかけた。

 

 

プロなら3時間ほどでできるらしいが、ゆっくり丁寧にしたら倍以上かかった。初心者用に手順を省略したのだろうな、と思われるところに関しては、敢えてめんどくさいやり方で作った。手間をかけるほど着心地や耐久性に影響するはず。

 

 

結果、そこそこいい感じに完成。縫い目が曲がっていたり、縫い返しすぎて糸がゴチャゴチャしている箇所もあるけれど、最低限、人前に出ても恥ずかしくないと思う。

 

 

これは母にプレゼントした。歳をとってきたので地味なものよりかわいいものを、と思ってキュートな猫のプリント。オレンジが好きなので、バイアステープにオレンジを使い、糸は家にあった赤。暖色系の優しい色合いに仕上がった。

 

 

「でも、宝のもちぐされね」

 

母が喜んでくれたのでひとまずよかった。

 

 

が、その後。

 

 

その日は、ご飯も食べずに集中してエプロンを作り上げ、合間にお菓子も作っていた。出かけていた母が帰ってきて、いろいろ仕上がっているのにびっくりしていた。

 

 

「すごいなあ」と感心されたので、「天才でしょ」と冗談でいうと「はいはい。でも、宝の持ちぐされね」と言われた。イラっ

 

 

めんどくさいので突っ込まなかったが、母が言いたいのは「せっかく器用になんでもできるのに、仕事をしないなんてもったいない」ということ。

 

 

なにかとこっち系の話に持っていかれるので、前はいちいち反論していたのだが、もう慣れっこになって最近はスルーしている。

 

 

今だからこそ豊かな生活

 

実際、わたしは会社勤めしていたときも器用だった。初めての仕事内容でも自分なりのやり方を見つけていくので、いつもそれなりの結果を出していた。どの仕事も辞めなければもっと認められたかもしれない。でも、会社の方針が合わなかったり、やっていること自体に興味を失ったりして、どれも長く続かなかった。

 

 

いろいろあって、いまは仕事そのものに興味をうしない、今は家で半ヒキコモリ状態。気分の赴くままにお菓子を作ったり洋裁をしたり、編み物をしたり、文章を書いたりと、気の向くままに好きなことをやっている。

 

 

お金にはなっていないが、いまの衣食住は結構豊かだ(正確にいうと「住」は少し不満だけど)。母が放っておいたら何もしないグウタラなのに対し、わたしは自分が納得するまでなんでもトコトンやるタイプ。

代わりにわたしは内向的。一方の母は明るく社交的なので、近所づきあいなどは任せている。

 

 

掃除魔で邪気払い

 

わたしが実家に帰ってきた当初、家の中は暗くてギスギス、ゴチャゴチャしているし汚かった。まだ生きていた父とのケンカも絶えなかった。それがわたしが帰ってきてから確実に変わった。自分で言うのもなんだけど、これは事実。

 

 

母が友人から「家から笑い声がよく聞こえる」と言われるようになったし、両親のケンカも減った。ミニマリストのわたしが家の不要物を売って捨ててと断捨離しまくり、掃除しまくった。

 

 

不思議なこともあった。わたしが帰ってきた当初、風呂場の天井がカビだらけだった。母は掃除をあまりしないうえに、カビだらけでも気にしないというトンデモナイ人なのだが、換気だけはちゃんとしていた。そんな状態で、普通、風呂場の天井にカビがこんなに生えるだろうか?

 

 

実際、わたしが掃除をした後は何年たってもまったくカビが生えない。別に何か加工をしたわけでもなく、換気だけは変わらずちゃんとして、あとは放置している。

 

 

それがずっと不思議だったのだけど、これっていわゆる「邪気」だったんじゃないだろうか、と今は考えている。水回りは邪気が溜まりやすいというし。

 

 

うちの両親は、家の各所が汚れていても一向に気にしない。わたしは10代で家を出たのであまり意識していなかったけど、一人暮らしをしてからは、かなりキレイ好きだったので、久々に帰ってきたときはあまりの汚さに驚愕した。

 

 

水回りもトイレもひどく、最初は辛かった。風水は多少知っていても、そんな気にするタイプでもなかったが、こんなに汚かったらそりゃ金運も下がるだろう。

今は常にピカピカにしているので、金回りもよくなっているはずではあるが、当時の父は退職して再就職だし母は完全な専業主婦だったので、目に見える何かは入ってきてない。でもお金の代わりに違うものとして入ってきてるはず……! と信じている。

 

 

無職である正当性を主張してみる

 

生活というのは、一瞬ですべてが変わるわけではなく、住んでいる人間の影響によってすこしずつ変わる。両親がふたり暮らしでいた10数年ののち、わたしがフラっと帰ってきて、確実にいろんなことが変わった。ぜったい。

 

 

しかし、時間をかけてじっくりなので、その変化は分かりづらい。

 

 

仕事を辞めてニートになってからは、わたしの「生活」への態度も急激に変化。衣食住の質の向上に丁寧に向き合っている。母の凝り固まった観念を溶かす実験もしていて、それはいい方に効果を発揮している(たぶん)。同じお金で暮らしていても、日々の生活の質は格段に向上している。わたしはハマると場を支配する力が強い。この家に関しても、一番はわたしなので、わたしの影響力が強く出てきた。

 

 

ということで、ある意味で母相手に豊かさを提供しているわけで、会社勤めで給料をもらっていなくても、能力を発揮している。むしろ、社会貢献より会社貢献・上司貢献の意味合いが強い仕事よりも、よほど無駄がなく有意義な仕事だ。

 

 

ムリヤリお金の話にこじつけると、母が以前より豊かな気持ちでいるのならば、心身ともに健康であるといえ、将来的な医療費も抑えられる。

 

 

とまあ、わたしが無職である正当性を延々と書いてみた。

 

 

母はそんなわたしの素晴らしい仕事っぷりに気づくことはない。「いまの家の状況と前と比べたら全然違うでしょ!」というと「そんなに変わっていない」という。いやいやいやいや、全然ちがうだろ! 母は自分の都合のよい記憶に脳内変換している。恐ろしい。

 

 

「なんか、変わったかもしれないわね。でもそんなのどうでもいいから、働けよ」ってなとこだろう。わたしが頑固で強いので口に出すのを諦めただけだ。

 

 

なんのために仕事をするのか

 

 

やりたいことがあったり、信頼できる人に誘われたらまたどこかで雇われたいと思うけれど、いまはない(あったけどうまくいかなかったり)。無理しなくても生きていけるのに、なぜ好きでもない仕事を無理に見つけて行く必要があるのだろう。いまの生活より、わたしが外に出て訳の分からない仕事にこの能力を使うことの方が価値がある、と本気で思っているのだろうか。

 

 

わたしの将来を心配してくれているかもしれないが、どんな立派な仕事を始めたところで、「違う」と思ったら辞めてしまう性格なのもわかっているはず。まだ世間の大多数が信じている「正しい人生のレール」から外れたことに、不安を持っているのだろう。わたしも不安がないと言えばウソになるので、気持ちは分からないでもない。

 

ま、なりふり構ってられなくなったら、金のため、上司のゴキゲン取りのため、自分を〇して働いてる可能性は十分ある。目的が明確なら、それはそれでとことんやってやる。

 

 

とはいえ、基本的には、自分の気持ちを〇してただ命を長らえることを優先するか、自分を貫いて短命か。どちらか選べと言われたら後者だ。ただ自分を貫いて、うまく生きていける道はあるはず。ネットを見れば少数派だとしてもゼロじゃない。

 

 

自分と同世代や若い年代が自分らしさを貫きながら起業しているのを見て、やってみようとしたこともあったが、商品が思い浮かばないのでやめた。しいて言えば、こういう場所でぽつぽつ発信はしているか。何かにつながればいいなーとは思うけど、どっちでもいい。

 

 

好奇心は相変わらず強く、常に何かしら新しいことに手を出しているので、いまの時間は無駄でもないと思ってる。洋裁に興味を持って、自分でデザインした服が作りたい、というささやかな欲も生まれた。

 

 

宝の持ち腐れなんて余計なお世話だ。むしろ、持っている宝を燃料にして社会に還元している人の多いこと。宝をちゃんと使ってはいるが、使い方間違ってるでしょ、みたいな。宝を置いておく余裕があるなら、持っておいてもいいじゃん。腐るとは限らない。発酵するかもしれないよ?