おやつく後記

日常のことなど思いつき

最近の映画の楽しみかた

昨日公開の映画「小説家の映画」を見に行った。前情報としては、韓国映画で、監督が有名な方で、ベルリン国際映画祭で賞をとった、ということのみ。正直、「こういうのが賞をとるんだ?」という感想だった。わたしは芸術が分からない人間だ。

 

 

 

ただ、主人公の小説家と女優の共通点である「かつてその分野でトップかそれに近いところまで上り詰めて、才能が認められているのに、なぜ続けないのか?」ということについて、それぞれ思うことがあるのは理解できた。二人ともその理由についてはほぼ語らないが、第3者に対する態度は違っており、そこに人間らしさを見た。

 

 

小説家が初の映画作りで何をしたいのか、というのも興味深かった。映画のストーリーは大事じゃない。「この人だったら撮ってみたい」と思える女優がいて、その女優が演じるということが大事なのだ。この映画を撮ってる監督の考え方なんだろう。

 

 

ストーリーは淡々としているし、登場人物たちがなぜ今のような心境・状況に至ったのかもよくわからない。ただ、偶然二人が出会ったその日と、映画の試写会の日だけのエピソード。映画を見終わった女優がどう思ったのか、満足だったのか不満だったのかさえ最後までわからない。

 

 

表層的には「なんかよくわからない映画だったな」と映画館を後にしたのだが、不思議と役者たちの顔や声、雰囲気はしっかりと心に残っている。それはモノクロだったからというのもあるだろう。そして、シーンごとに、雑談のような、意味があるようなないような会話をする。その時の人物が何を思って言葉を発しているのか、言葉にしてくれないので表情やしぐさに集中せざるを得なかった。それは映画を楽しむというより、目の前にいるリアルな人間を第3者として近くで見つめているような感覚だった。

 

 

最近のわたしはそんなに人と会わないし、会ったとしても深いコミュニケーションをとらないので、ここまで人を見るのはドラマや映画の方が多い(悲しいことに)。しかし本当は表面的な会話ではなく、なにごともじっくり話すのが好きだ。同時に「この人は何を考えてこのことばを発しているのか」というのを敏感に感じ取る。言葉以上のコミュニケーションがしたい。それこそ人間でいることの醍醐味ってもんだろう。仕事だとしてもビジネスを遂行するだけならAIにお任せすればいいわけで。

 

 

現在のリアルな人間関係、特に仕事関係だと画一的な会話になりがちで肝心の人間関係は薄かったりするのだが、皮肉なことにフィクションの映画ではじっくり観察できた。「なるほど、こういう人たちもいるのね」と。

 

 

だから、監督がこの映画で表したかった人間、そして役者自身が持っている資質と融合に惹きつけられた。それはまさにこの映画のテーマでもあった。

 

 

こないだ見た「ター」でも同じだったのだが、「なんでここでそういう態度をとるんだろう」ってすぐ思っちゃう。「わたしならこうするけどな」とつい映画と関係ないのに、自分に置き換えるクセがある。

きっと、こういう人間が世界のどこかにいるのだ。一方通行ではあるが、どこかの誰かとコミュニケーションしている気分。それはわたしのひとつの映画の楽しみ方なのだ。

 

ターに関してはケイトブランシェットのファンなので、また別視点の楽しみ方もあるのだけど。

 

 

ターも小説家の映画も、好きな評論家さんが勧めていたので行ってみたのだが、普段はわかりやすくておもしろい、即効性のあるエンタメを求めて映画館に行くことの方が断然多い。

 

それでも最近はドキュメンタリーもしくはドキュメンタリータッチの方に興味が移ってきている。刺激のバリエーションに飽きたのもあるけど、ご都合主義だったり「こういうの好きでしょ」っていう作為的なのが苦手になってきた。関係者の誰か知らないけど、強すぎる自我を感じるとしんどい。

 

 

ドキュメンタリーやそれに近いものは、調和がとれているからとりあえず受け入れらえる。

 

 

調和の中の事件を見たい。それぞれのリズムを奏でる人間を見たい。

って思うようになったのは、人間関係が希薄だからかな。それとも歳とったからかな。

 

 

次は分かりやすいテーマのにしよっと。