おやつく後記

日常のことなど思いつき

AI時代に小説をかくこと

素人小説をぼちぼち書いている。でも「なんで書いてるのだろう」と我に返ることもしばしば。

 

賞でも獲って注目されないと、いくら自己満足度が高くてもなかなか見てもらえないんじゃないか、と思う。ただ一方で、今の時代なら賞なんてなくても、自分の作品を好きになってくれる人が世界に5人でもいたらいいや、と思う。そのためにはどうしたらいいのだろう?

 

 

太宰治三島由紀夫といったかつての文豪たち(どっちもほとんど読んだことない笑)。「文豪」っていう響き、憧れるよね。しかしネット社会で誰でも文章が公開できる現代に、わたしのイメージする「文豪」はもう生まれないと思う。

 

 

せめて小説家と呼ばれる人になりたかった時期もあった。いうほど書いてないけど。でも今は肩書に憧れることはなくなった。小説家になりたいのではなく、小説が書けたらいいじゃん。これで食っていく、とか考えるとめんどくさいけど、書くだけならできるし、公開することもできる。

 

 

いまは小説不況の時代で、書店での回転もものすごい早いらしい。書いては消え、新しいのが出る。コンビニみたい。コンビニ人間ならぬコンビニ小説。

 

 

わたしもその仲間入りをしたいか? というと嫌だ。というか無理だ。ちょっと前まで会社や上司、社会が求めることを、とスピードと効率重視で回していたこともあって、やろうと思えばできるのだけど、そこに価値を置くのがむなしくなった。

 

 

小説家というとアーティスティックな雰囲気を想像していたけれど、そう悠長に生きている人は実際少なそう。結局は専業にしろ副業にしろ、いろんなことに追われるなら、これまでの生き方と一緒なわけで、それじゃあ前職を辞めた意味がない。

 

 

いままでなら、それしか道がなかった。でも、いまはほかの道がたくさんある。

 

 

小説だっていま不況だし、コンビニ化してるし、賞だって本来の意義を見失ってるけど、ここからまた変わるはず。

 

 

今後のAIの進化によって、物語のバリエーションは増えるだろうし、だれでも簡単に作れるようになる。そしたら、設定やキャラ重視の小説はAIにとって代わられるだろう。

 

 

となると、一周まわって文学がまた注目されるのではないだろうかと予想している。人間の繊細な感情の動きは、AIに描けないでしょ。

 

 

もう一つは「身体性」。ツイッターでフォローしている人にそっち関係の人が多いのだが、これからは”身体性”がカギになるっぽい。AIにはないものであり、現代人が失っていていま見直されているもの。そして、言葉からもにじみ出てくるもの。

 

 

正直、身体性がある言葉ってのはよく分からないんだけど、人の小説やマンガ、エッセイを読んでいると身体性の度合いが伝わってくる。身体性がない文章はツルツルしていて、刺激的でもすぐ忘れる。身体性のある文章は、一見ありきたりでも心に残る。

 

 

後者が人間の文章。

 

 

そういうのをちゃんと書けるようになれたら、誰か1人くらいは読んでくれるんじゃないかな。だからちゃんと自分の言葉をつづろう。