おやつく後記

日常のことなど思いつき

手仕事の第一歩は大好きなものを手に入れること

過去記事がはてなブログさんで紹介されててびっくりした。

 

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金継、わたしも昨年初めて挑戦した。ウルシでかぶれて顔が3倍くらい腫れあがって化け物みたいになって途中で放棄したけど。ちょっとトラウマなので再開できてない。

「ダーニング」も見様見真似でやったことある。

 

そうか、わたしこういうのが好きなんだな、と他人の記事で気づかされた。いいものを長く使いたいんだよね。社会貢献を意識している訳ではないけれど、自分はエコな循環型人間だと思う。

 

 

 

デニムの修復をしながら思ったのは、素人のヘタクソな直しでもそれほど気にならないってこと。特にデニムだからこそ。

 

 

そもそも、デニムっていうのは働く人のための作業着だったはずだ。だから丈夫で強く、長く履いているうちに色落ちや傷みが味になって、それがオシャレに繋がったというわけだ。まだファッションとして定着する前、作業着として活躍していたころは、破れやほつれも自分かせいぜい奥さんが直していたと思う。そこで縫製専門のプロなんていなかったはず。そういう生活感のある履き古し具合も、普通の人が履いてきた証でありオシャレの要素になりえるのではないだろうか。

 

 

破れやホツレも味のひとつであり、それを直したところで新品同様に戻るわけでもない。それがいいのだとすれば、うまい下手も味として昇華させていいだろう。わたしより更に素人がいたとして、手縫いで縫い目が1センチとかでも、それすら楽しんじゃえばいい。デニムを直してまで履く人なら、どうせならオンリーワンでいこう。

 

 

丈夫でデザインがシンプル、そして必然性とともに修復する。だからカッコよく見えたものが、今は作業着として着ることもなく、修復はファッションのみに機能し、本来の用途や目的は形骸化した。別にそれでもいいけれど、ファッション性のみに注目して、本当のかっこよさを忘れていたなと反省した。わたしの場合、「かっこよさ=その人らしさ」だから。

 

 

ファッションっていうのは必ずしも人に提供されるものではなく、自分で生み出せるものだ。

 

 

そう思ったのは、これまで料理やお菓子作りでアレンジに目覚め、最近服作りにも手を出したときに、服も料理と同じくらい自由でいいんだ、ということを知ったから。

 

 

自分で服を自由にデザインするなんて、デザイナーでもあるまいし考えたこともなかった。でも大好きなデニムが破れてしまった。まだ直したら着られるからどうにかしたい。修理に出そうかと思ったけど、めちゃくちゃ高い、あるいは断られた。じゃあ自分でやるしかない。難しそうだけどできるかな。。丁寧にやれば意外となんとかなるもんだな――と手を動かすたびに考えが変わった。

 

 

なぜそんなことができるかというと、大前提として「この服が好き」だから。

 

 

 

安い服だったり「これでいいや」と妥協して買った服は簡単に捨てられる。昔はわたしもそうだった。

 

 

めちゃくちゃ気に入ってるから、少しでも長く着たい。最後は捨てるしかないけど、捨てなくてもいいならどうする? って一生懸命考えるからアイデアがわくし行動しようと思える。デニムシャツなんて、40年以上前の母の私物。色褪せ具合も美しく、古着屋でもそうそうお目にかかれない。古着屋と違って着た人物が分かっているのもポイントが高い。

 

 

ジーパンはせいぜい5年ちょっと前の者だったけれど、当時買った時の店員さんのデニム愛がハンパなかった。わたしの希望を伝えると「絶対これがいいですよ!」と意気揚々と持ってきてくれて、履き方も丁寧に教えてくれて、自分のデニムは育て方を失敗したなんて笑い話もしてくれて、「この人、ホントにデニムのことが好きなんだなあ」とこっちまでうれしくなった記憶がある。だから余計に大事にしようと思えた。

最近は服を買いに行ってもソツのない接客ばかりで、丁寧で文句のつけようはない反面、印象にも残らない店員さんばかり。たまに自分のことばで率直な意見を言う人がいると、やっぱうれしい。

 

 

モノを手に入れるときも、結局は人。通販を使うことも多くなったけど、しっかりした店員がいるのなら、対面で買う方が断然いいね。

 

 

ただし、店員もまた自分が販売するものを愛していることが絶対条件。自分が売ってる商品をどう思っているか、少し話せばわかるものです。

 

 

商品を愛している人が企画・デザインして、縫って、売る。それを欲している人が自分のニーズに合ったものを買う。そんな平和な循環があれば、モノを大事にしたいという気持ちも芽生える。