おやつく後記

日常のことなど思いつき

何気ない日常の花束記録

「題名のない今日」

いまさら知った曲なんだけど、心が温かくなるいい曲だね。

 

何気ない日常に花束を

なにげない景色に額縁を

 

毎日そうやって生きていけたらいいなあ。

 



 

人間苦手の人間好き

 

わたしは社交的ではないので、1人で過ごすことが多い。楽しくない時は笑えないので、頑張ると頬がひきつる。社交辞令の会話が苦手なので、頑張ると変なことを口走る。同居している親がわたしと真逆で愛想がよく、ちょっとした名物みたいな人なのでよけいに肩身が狭く、近所を歩くときは緊張する。

 

 

でも、ほんとは人間好き。空気を読まなきゃいけないコミュニティより、利害関係のない人とのほうがリラックスして交流できる。だから、町で出会ったどこの誰とも知らない人との一瞬の交流で「今日は最高の日だ」って思えたりする。

そんな花束の一コマ記録。

 

 

花束1

会社勤めをしていたころ、通勤電車の中でぼんやり外を見ていたら虹がかかっていた。誰か見てる人いないかなーと周囲をこっそり見たらみんなスマホを見ているか寝てるか。誰も気づいていなそうだった。それが出勤して同僚と話していたら「今日、虹が出てたよ」と言ってきて「ここにいた!」ってうれしかった。

 

 

花束2

某チェーン店のカフェで全面ガラス張りのカウンター席に座ってぼんやり外の景色を見ていたときのこと。真向いにある横断歩道から幼稚園くらいの小さい女の子が走ってきた。ガラスは部分的に目隠しになっていて、大人の目線は合わないのだけど、背の低い子どもだと顔が見える。ゴキゲンな子ねと思ってみていたら、まっすぐわたしに向かって走ってきて窓に張り付いて、ニコニコしながら手を振ってきたので、わたしも振り返した。あとから追いついたお母さんの「あらやだ、すみません」みたいな笑顔にも会って、なんか幸せだった。これと同じ経験を別の場所でもしたことがある。”子どもあるある”なの?笑 こどもの笑顔は最強。

 

 

花束3

コロナ禍まっただ中の時に、ファミレスでお茶してたとき。何かがあたってアクリル板が豪快に床に落ちた。すると近くにいた小学校4,5年生くらいの女の子が拾おうと反射的に動いた。わたしも同じくらいのタイミングで動く。

すると女の子「あ、余計なことしない方がいいのかな」と一瞬止まったので、あえて好意に甘えてみようと思って、わたしも止まった。するとすぐに自分がやろうと判断して拾ってくれた。「ありがとう」っていってアイコンタクトすると女の子はさわやかに去っていった。

 

自分で拾ってもよかったのだけどね、ちょっと交流したかったんだ。さっきの子どもより大きいので、少し社会性を身に着けているみたいだけど、まだ素直だから身体が先に反応するのだろう。でも気を遣いすぎず、このまま育ってねと思ったよ。そしてわたしも見習おう。

 

 

花束4

ちょうど昨日の話。

図書館にいたら急に母から電話。「急に雨が降ってきたから洗濯物を取り込んで」と。周囲に配慮しながら小声で「雨?」と窓の方に近寄るとものすごい雨。ゲリラ豪雨だ。窓の下は広場になっていて、イベントをしていた人たちが慌ててテントから避難している。「家にいないので洗濯物は取り込めない」と母との電話を切ると、窓が少し空いていて雨が吹き込んでいた。

すぐ目の前に座っている人もいるのに誰も気づいていない。端から順番に閉めているとカウンターから走ってきて、わたしと逆サイドから窓を閉めようとする年配の職員さんと目があった。困ったような笑顔で「ありがとうございます」と言われて、こちらも「すごい吹き込んでましたね」と笑顔で返した。

 

 

花一輪をためていこう

 

この交流はぜんぶ1分に満たない短いもの。そして、周囲にたくさん人がいたはずなのに、わたしと相手だけが存在した唯一無二の特別な空間だった。人間関係もシチュエーションも一瞬で生まれて一瞬で消える。そこにはフィルターが一切ない。これだけで「今日生きててよかったなあ」って思える。

逆に家族や同僚、ご近所さんとか、継続した関係が分かっている人ほどコミュニケーションが濁ってしまう気がする。だからこそ、意識的にフィルターを外す努力をしなきゃいけないんだろうな。

 

 

当たり前だった日常をいとおしく思うのは、当たり前じゃなくなった時。後で「あの頃は良かった」なんて言うことなく、毎日をずっと花束のように生きられたらいいな。たった一輪だとしても、心に残る花は知らない間に花束になってる。それが味わえるだけで最高の人生だよな。

 

さあ、今日も生きるよ。

 

 

 

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