おやつく後記

日常のことなど思いつき

お金のかからない教育で頭は良くなる

今日の読売新聞「人生案内」の相談内容が興味深かった。

 

要約すると「お金を掛けない教育をしているけど、周りはイベントや外食にいったり、習い事させてる。こんな感じでいいのかな」ってなところ。めっちゃいいお母さんだと思ったんだけど、不安に思ってしまうということは、周りにそういう人がいないのかな。

 

わたしはこの質問者と同世代くらいだが、子どものころはまさに質問者の子どものような感じだった。

 

都会育ちながら、子どもの頃は近所の子と遊ぶか虫とか植物で1人あそび。室内では主にご近所さんのおさがりおもちゃで遊ぶ。週末は父の趣味で海や山に行くか、祖父母の家に行く。ハヤリものには興味がない両親で、ディズニーなんて大学生で初めて行った。新聞広告に載りそうな大きなイベントはたまーに行くだけ。

 

長兄はアホだったので、小学校の授業についていけるようにと塾へ通わせたところ、間違って中学受験を見据えた塾に入り、そこからメキメキ力を発揮。難関国立大へ行き、これまた難関優良企業に就職。長兄はアホじゃなかったらしい。

 

わたしは長兄ほどではないが、勉強に関してひとつ思い出がある。

中1から行き始めた塾の初めての英語の授業で「英語を勉強したことがある人」と先生が聞いて、わたし以外全員が挙手。すごく恥ずかしかったのだが、半年後のテストで一位を取り、「なんだ関係ないじゃん」となった。ちなみに長兄も中学まで英語はノータッチだが、今は普通にペラペラ。

ちなみに次兄は勉強の方はサッパリだが地頭は良いので社会人になってから活躍してる。

 

親は習い事以外でそれほど子どもにお金を使うことはなく、お小遣いも同級生に比べて少なかった。おかげでいつも頭を働かせた。

 

小遣いを1円でも増やす悪知恵をいつも考えた。欲しい服が買えないから雑誌を見てデザインを真似て服をつくった。図鑑を手に外を駆け回り、草花に詳しくなった。トランプや花札、カードゲームにハマり数字に強くなった。「ないなら自分でつくる」精神が身につき、理科の実験を家にあるものを工夫してやった。そのすべてが今に繋がっている。

 

今回で思い出したけど、そういや、リアルの知り合いでも「子どものために週末どこに行けばいいかわからない」って悩んでいるパパがいたわ。みんな優しいよね。

 

うちの両親は「子どものため」なんて微塵も考えなかった。

(もちろん、教育熱心だったのは子どもの将来のためといえるが、「それがあなたのためだから」というより、「いいところ(大学)に行けよ。でないと恥だから」という強迫観念に近いものだった)

 

今思えば、母は自分の株を下げないために子どもをしつけていただけ(笑)

 

父は無邪気な人で、自分の好きなところに子どもを連れまわして遊んでただけ。時には職場に連れて行かれて「父さんすげーだろ」と自慢されるので、子どもたちは「すげー」と思っていた(笑)。連れまわされて普通に楽しかったし、父が自分の仕事に誇りを持っていることが伝わってきたので素直に信じられた。

 

うちの両親は世間一般からすると変わっていたかもしれないが、それが良かった。

 

もちろん、当時から感謝してたわけじゃない。子どものころは他の家庭と比べて「小遣い少ない」「おもちゃほしい」とか不満もあれば、「〇〇ちゃん、お小遣いそれだけ? ありえない」的にバカにされたこともあった。でも、そのせいで人格が歪むほどでもなかった。

 

そもそも、自分を満たせてない人間が「他人(子ども含む)のため」とか言ってるヒマはないだろう。きっと子どもは「わたしのため、とかいうまえに、お父さんお母さんが幸せになってよ」って思ってる。どんな子でも、虐待されている子でさえ、両親のことが好きっていうもんね。

 

あと、「子どもが一人だと遊べない」「習いごとやイベントでなければ楽しめない」って決めつけるのはなぜ? 親が手とり足取りやんなくても、子どもの方が楽しい遊びを考える力、あると思う。大人からしたらしょうもないことだって、夢中でやれる。むしろ、放っておいてくれないから、考える力がなくなって1人遊びすらできなくなるような気がする。

 

いまは子どもを独りぼっちにすると危険とかあるかもだけど、家の玄関でアリと戯れるだけで、ものすごい知恵を得てたりする。「アリと遊ぶだけなんてかわいそう」と思うとしたら、大きなお世話。お金を払う体験だけが素晴らしい訳じゃない。むしろ逆だ。人間がつくる人工物より、自然の生み出す造形の方が不思議でおもしろいに決まってる。全ての人工物は自然に勝ることはない。

不要な情報に満たされたわたしたちみたいな大人より、子どもたちの目に映る世界はずっとずっとまぶしいはず。

 

 

実は、なんだかんだいって、うちのきょうだいは塾に入るまではお習字にピアノ、水泳などやっていた。でもすべて親の方針であって、本人たちが希望したのではない。ありがたいことではあるが、別に行かなくても問題なかった。

 

ついでに小学生から塾にも行ってるので、「お金のかからない教育」とは言えない。

でも塾に行く前から「塾いってるの?」と聞かれるくらいの頭を持っていた。長兄もアホだと思われていた小学校低学年時に素質を伸ばし、塾に行き始めてからも「この科目の勉強方法は分かったので、もう行く必要はない」など自ら取捨選択をしていた。

 

また、うちは学歴偏重の家庭だったので、親の期待に応えるべく子どもたちもその目標に向かっていた。もし教育熱心でなかったなら、それぞれ別の方面で何か見出してたと思う。

 

幸せの形は生きている世界や育ってきた環境によって異なるので、そもそもそれを疑ってみた方がいい。うちのちきょうだいですら、少し学歴や就職先がいいからって、これが本当に幸せな道かというと、必ずしもそうじゃないのでは、と思うこともある。

 

ちょうど最近、YouTubeでターザンの動画を見て、すごく幸せに生きてるように見えたもの。彼はショッピングとか興味ないだろうし、お習字もピアノもやってないんじゃない? 学校の成績は知らないけど、頭が良くて魅力的な人だった。

 

 

ムリヤリまとめ。

お金をかけてもかけなくても、それなりの愛と”放置”という信頼さえあれば、いい感じに育つんじゃない? ということ。